養子は主に女子

徳川家康には20人以上の養子となった人物がいます。
ここでは、特に多かった養女の存在について解説します。

なんで女子を養子にするの?

徳川家康には21人にも及ぶ大勢の養女がいました。
女子を養子として迎え入れるのは、養子とした上で他家に嫁がせるためです。

徳川家康が活躍した戦国時代後半から江戸時代にかけては、家同士のつながりが重視されていました。
そこで一番手っ取り早く他家との縁を深めるために取られるのが、婚姻という手段です。

しかし、婚姻を結ぼうにも婚姻を結べる自分の子息は、徳川家康がいくら子沢山といっても婚姻を結ぶ必要を感じる相手に対しては足りません。
そこで取られたのが養女を迎えるという手段です。
養女を結び付きを強めたい相手、もしくはその嫡男と婚姻させることで徳川家との間に強い結びつけを作ったのです。

養女選びも容易ではない

養女を取って嫁がせる、といってもその養女とする女子は誰でもいいわけではありませんでした。
養女をどこから取るかも重要です。

婚姻すれば徳川家とだけでなく、実の親とも繋がりができます。
そのため誰ともわからない人物を養女とした上で正室に迎えてくれとしても、相手は自分は蔑ろにされたという感情を抱き、これまでの信頼関係は崩壊してしまいます。
実際、徳川家康が養女を取った家は徳川家一門や徳川家に代々仕える重臣など徳川家康にとっても重要な人物の娘になります。

一人だけいる猶子

徳川家康の子には、一人だけ特殊な立ち位置の人物がいます。
それが「猶子(ゆうし)」として迎え入れられた「良純入道親王」という人物です。

猶子とは

「猶子」は養子の一種ですが、養子ほど家に結ばれない親子関係を結ぶ親子関係です。
婚姻のように猶子の親との仲を深めるほか、官位昇進のために結ばれることもありました。

猶子となった例でいうと豊臣秀吉がいます。
羽柴姓を名乗っていた頃の豊臣秀吉は関白の地位を求めました。
しかし当時、摂政と関白の職は『藤原五摂家』が独占していました。
そこで豊臣秀吉は五摂家の一人「近衛前久(このえさきひさ)」の猶子となることで正当性を得、「藤原朝臣(ふじわらあそん)」秀吉として、関白に就任すしたのです。

良純入道親王

「後陽成天皇(ごようぜいてんのう)」の第八皇子として生を受けた「良純入道親王(りょうじゅんにゅうどうしんのう)」は、「八宮良純親王(はちのみやりょうじゅんしんのう)」とも呼ばれています。
浄土宗総本山『知恩院』の初代門跡とされている良純入道親王は、1615(元和元)年、11歳の時から徳川家康の猶子となりました。

しかし、徳川家康の死から30年ほど過ぎた1643(寛永20)年、幕府を非難する言動が目立ち、酒乱による悪行も目立ったことから流刑となり16年に渡り幽閉生活を送ることになりました。
その後、罪を許されると門跡となっていた知恩院ではなく『泉涌寺(せんにゅうじ)』を住まいとした後に還俗、京都の北野で隠居生活を送り、生を閉じました。

まとめ

徳川家康の実子、そして猶子にどういう人物がいたのかをご紹介してきました。
天下人の子でありながら、歴史の授業では習うのは将軍になった徳川秀忠くらいですが、実は16人もの子が徳川家康にはいました。
やはり天下人の子供だけあって殆どの人物がどの様な人生を送ったかが綴られていましたが、残念なことに早逝している子どもたちの場合、母親の名前しか分かっていないということもあります。
しかし、女子達についても『名が不明』で女子という記載のみの人物はいないことから、記録がしっかり付けられていることが紐解けます。

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