日本史の中でも屈指の人気を誇る戦国時代。
この時代は戦国武将や戦国大名と呼ばれる英雄たちによる群雄割拠の時代でした。
応仁の乱から始まり、100年以上続いた戦国時代には多くの有名人が出てきました。
毛利元就や織田信長、豊臣秀吉に徳川家康、そして武田信玄に上杉謙信と名前を挙げるときりがありません。
そんな中でも「戦国時代最強」と言われたのが「上杉謙信」です。
なぜ上杉謙信が他の戦国武将を差し置いて最強と言われているのか。上杉謙信の強さをご紹介します!!
目次
上杉謙信は負けないので強い
引き際をわきまえることで負けない
「上杉謙信(うえすぎけんしん)」の戦歴は圧倒的な凄さがあります。
それは敗戦の少なさです。
上杉謙信が指揮したと思われる合戦は約70あります。
それに対して敗戦は2回しかありません。
その圧倒的な敗率の少なさはもちろん驚きですが、もうひとつ戦率から見て取れる驚きの点があります。
それは引き分けの数です。
およそ24回引き分けていますので、35%ほどが引き分けの戦いになります。
これは決着をつけ自軍の消耗が激しくなることを恐れ、引き際を見極めるのが非常にうまかったためともいわれています。
救援での出兵も多かったので、長期間越後国を留守にしていると攻め取られる危険性も高かったので、深追いをせずに撤退することもあったそうです。
初陣から20戦以上0敗
上杉謙信は、15歳の時に初陣を勝利で飾ると、そこから20戦以上負け無しで戦ってきています。
その中には宿敵の「武田信玄(たけだしんげん)」や名将「北条氏康(ほうじょううじやす)」との合戦も含まれていますが、15年以上負け知らずでした。
特に北条氏康との戦いは、上杉謙信が小田原城まで攻め立てに行くという苛烈な戦いでした。
正に軍神といった戦場での活躍ですね!
義に厚く人望が高い
上杉謙信は強いだけの人物ではありません。
敵であった武田信玄も一目を置き、遺言の中でもしもの時は上杉謙信に頼るようにと言われた、とされているほど義に厚い人物です。
裏切りが日常の戦国の世において、敵からも信頼に足るとされた上杉謙信の行動がそれだけ芯の通ったものだったのでしょう。
そして、そんな頼れる上杉謙信のもとだからこそ兵士たちは勇猛果敢に戦い、上杉謙信の勝利に携わる精強無比な兵であり続けたのでは無いでしょうか。
救援の要請に応える義の人
上杉謙信の出兵の特徴として、臣従した配下からの救援要請が多いことにあります。
越後国(現在の新潟県)を拠点としていた上杉謙信ですが、関東の「北条氏康(ほうじょううじやす)」、信濃国(現在の長野県)の「武田信玄(たけだしんげん)」、越中国(現在の富山県)と各方面からの侵攻に対して救援要請が来ていました。
この要請に対して見捨てることなくすべてに対応していたといいますから驚きです。
「依怙(えこ)によって弓矢はとらぬ。ただ筋目(すじめ)をもって何方(いずかた)へも合力(ごうりき)いたす」と言葉を遺しており、これは「私利私欲のために戦うのではなく、道理を持ってどこへでもと公言していました。
これだけ頼りになる人物は、そうそういないですよね!!
合戦はごちそうで知らせる
上杉謙信の合戦の部下への知らせ方は独特のものでした。
日頃は倹約家でもあった上杉謙信は日々一汁一菜で過ごしていました。
ですが、戦の前には米を大量に炊かせ、部下将兵に山海の珍味をふんだんにふるまったといいます。
この食事には日頃の上杉謙信の食事を知っている将兵は大いに喜ぶとともに士気が高まり、結束力を持って合戦に挑んだといいます。
このように義理堅い上杉謙信と性格と結束力の強さがあったからこそ上杉軍は強かったようです。
上杉謙信の強さが分かる合戦
日本で一番有名な戦国大名といったらまず上がるのが「織田信長」だと思います。
その織田軍と上杉謙信は交戦をしています。
上杉謙信最後の合戦にして鮮やかに勝利をあげた合戦「手取川の戦い」をご紹介します。
織田信長軍に快勝!人生最後の合戦「手取川の戦い」
1577(天正5)年、「長続連(ちょうつぐつら)」からの救援要請に応えた織田信長軍は、織田軍一の猛将にして家老の「柴田勝家(しばたかついえ)」を総大将として「滝川一益(たきがわかずます)」「羽柴秀吉(はしばひでよし)後の豊臣秀吉」「丹羽長秀(にわながひで)」「前田利家(まえだとしいえ)」といった人員と4万の軍勢を出陣させました。
途中、羽柴秀吉が勝手に撤退をするなどの問題はありましたが、織田軍は手取川を渡りました。
しかしここで2つ重要なことを知ります。
一つはすでに救援対象の長続連が討ち取られてしまっていたこと。
もう一つは手取川付近の松任城に上杉謙信が入城しているということです。
戦いの名目は無くなっている上、軍神・上杉謙信が間近にいると知った織田軍は逃げようとしましたが時はすでに遅く、上杉軍に追撃された織田軍は死傷者を多数出す惨敗を喫してしまったのでした。
この合戦については、上杉謙信は「信長軍は思いの外、弱い様子」とあっけなく終わってしまった感想を述べています。
また、この合戦については世の中でも評判になったようです。
その証として「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長」という落首が残されています。
上杉軍は勢いに乗っており、織田軍は逃げ帰ったと表現されています。
最後の「とぶ長」は「信長」と「飛ぶ(逃げる)」を掛けた言葉です。
鉄砲の有効性にいち早く気付いた革新性で有名な織田軍ですが、軍神上杉謙信の前にはひとたまりも無い残念な姿をさらしてしまったようです。
もう一つの戦場「経営活動」
ここまで合戦でいかに上杉謙信が強かったかを紹介しましたが、上杉謙信にはもう一つの面がありました。
それは経営者としての一面です。
上杉謙信は度重なる合戦、そして関東までの遠征といった費用の工面をするためにも資金が重要でした。
その資金源となったのが2つあります。
「青苧」で利益を上げる
一つは「青苧(あおそ)」です。
青苧とは「カラムシ」とも呼ばれる植物です。
この青苧の茎の皮からとれる繊維を使うことで麻と並ぶ丈夫な衣類を作ることができます。
そして、当時の越後国はこの青苧の一大産地でした。
青苧に目を付けた上杉謙信は『直江津(なおえつ)などの港を整備』、『青苧座と呼ばれる青苧商人たちの組合を統一』と環境を整えたうえで海路を用いた販路を拡充し莫大な利益を上げていました。
金の産出で利益を出す
越後で金といえば佐渡島、と思われるかもしれません。
ですが、残念ながら佐渡金山の始まりは1601(慶長6)年、すなわち関ヶ原の戦いの後なので上杉謙信の時代には結びつきません。
とはいえ、佐渡金山がなくとも越後国内には金山がありました。
現在では所有していた金山の名前は不明ですが、「鳴海金山」だったのではないかとされています。
青苧と金山で資金調達を成功した上杉謙信は、経営者としても実に優秀だったんですね!
まとめ
上杉謙信は人生ほぼ負け無しと非常に戦いに強い武将、というだけでなく義に厚く実に頼りになる人物だったようですね!
部下の心もしっかり掴んではなさない求心力も魅力的です。
そして経済面でも充実していたため70回にも及ぶ戦いができたんですね!
強く資金があり、カリスマ性があると武将としての要素を全て持っていたからこそ上杉謙信は最強といわれているのではないでしょうか!?