中国史上最強の武将は項羽!?まさに天下無双な強さを紹介

2019.11.19


今も昔も最強というのは多くの人の感情を揺り動かします。最強の動物、戦国時代最強、最強の戦闘機や戦車、多くの最強が語られます。

数多の最強の中でも古くから多くの人々が語り物語として紡いできたのが、悠久な歴史を誇る中国史上最強の人物です。その人物は「項羽」。漢の高祖「劉邦」のライバルであり、覇王の語源となった人物です。

その項羽がいかに強かったかを今回ご紹介したいと思います!



項羽という人物

出典:wikipedia.org

秦の末期から活躍した項羽(こうう)、姓は「項」、諱(いみな)は「籍」で字が「羽」といいます。

中国では姓・諱・字という三要素から名前が構成されています。諱は親や主君、年長者など目上の人物以外は軽々しく呼んではいけないものとされており、姓と字の組み合わせで呼ばれることが多いとされています。

紀元前232年に生まれ、秦の始皇帝が亡くなったのちに秦を滅ぼすため決起し、秦を滅ぼした後に紀元前202年に『垓下の戦い(がいかのたたかい)』で前漢の初代皇帝「劉邦」に敗れて亡くなりました。

項羽の評価


23歳で初陣を飾ると、30歳でその生涯を閉じるまでの短い期間で70戦もの戦をし、最後の一戦となる『垓下の戦い』以外敗北が無いという、常勝を重ねて生きたのが項羽です。その勝率は実に98%という驚異の数字で、戦場に立つ項羽が凄まじかったということがわかります。

項羽は優れた人物を信用できない性格の持ち主のため、自ら前線を張る「匹夫の勇」。そして礼儀正しく、困っている人に手を差し伸べる優しさはあるが、実績を出した人物を評価しねぎらうことがない「婦人の仁」、この二つの心の持ち主である。と辛口の評価したのは、最初は項羽の下にいましたが、後に劉邦(りゅうほう)に仕えて『国士無双』といわれる活躍を見せた「韓信(かんしん)」でした。

同じく項羽の後に劉邦に鞍替えをした「陳平(ちんぺい)」も「謙虚で礼儀正しい人物なので、礼節を重んじる人々は一度項羽の下に行くが、功績を立てても土地や爵位などを与えられることが無いのため項羽の下を離れる」と第一印象はいいがケチだから人が付いていかないと評価しています。

礼儀正しく、戦に強くても、人を信用せずに功績を正当に評価することのない人物と評価された項羽の人望はそれほど高くなかったように感じますが、実際には圧倒的な強さを持っていたからか、最後の戦いの際も10万という大兵が項羽のもとで戦っていました。

項羽の親族と出生地


項羽の一族は秦国によって滅ぼされた楚国に代々武官として仕えていました。祖父の「項燕(こうえん)」も、楚が滅んだ時に最後の将軍として戦っていました。両親を早くに亡くし、叔父の「項梁(こうりょう)」によって育てられた項羽ですが、文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかったといわれています。

そのことを指摘された項羽は「文字は自分の名前が書ければ十分、一人を相手にする剣術はつまらない。万人を相手にする物がやりたい」と答え、項梁から兵法を叩き込まれました。そして成人した項羽は、身長が8尺2寸、190cm近い巨体と怪力で知られる人物となりました。




西楚の覇王・項羽

出典:wikipedia.org

始皇帝の死後、反秦軍としての活躍

初陣前から伝説的な功績を上げる


始皇帝が紀元前210年に亡くなると翌年の9月、項羽は叔父の項梁に命じられて、『郡守(ぐんしゅ、州・群・県に分けられた行政区分のうち郡の長官)』を倒し反秦軍として挙兵しました。この時項羽は、郡守の部下百人を一人で殺すという強さを見せたといいます。剣術を習っていない項羽ですが、190cmに迫る体格があり、非常に優れた身体能力があったといわれています。

項羽の初陣、そして快進撃


挙兵した項羽は、初陣で襄城(じょうじょう)を攻めると、城兵を全て生き埋めするという強さを見せました。その後も『楚王』を擁立することで、『楚軍』となる大義名分を立てたうえで快進撃を続けましたが、項梁が秦の将軍「章邯(しょうかん)」の反撃に遭い討死してしまいます。

項梁亡き後、一時「宋義(そうぎ)」という人物が楚軍を率いましたが、項羽がその指揮権を取ると、紀元前207年に章邯が率いる20万以上の大軍を打ち破る大勝利を見せました。『鉅鹿の戦い』

劉邦との確執


章邯に勝利した後も次々と秦の都市を平定していった項羽ですが、劉邦が『関中(かんちゅう)』と秦の首都『咸陽(かんよう)』をすでに落としていたことを知り項羽は激怒し、味方ながら劉邦を攻めようとしました。

これに慌てた劉邦が項羽に陳謝しに来たことで和睦をしました。これを『鴻門の会(こうもんのかい)』といい、項羽と劉邦のターニングポイントになったといわれています。ここで項羽は劉邦を攻める建前を失ってしまったため、後の項羽の敗因につながるとされています。

和睦を受け入れた項羽は、秦国の討伐に功のあった者に論功行賞を行い、楚の『彭城(ほうじょう)』を手にし『西楚の覇王』を名乗るようになります。歴史上『覇王』を最初に名乗ったのはこの時の項羽だといわれています。

楚漢戦争

出典:wikipedia.org

劉邦との確執


項羽自身には彭城を与えた論功行賞ですが、咸陽に一番乗りした劉邦には約束の『関中』ではなく道の険しい難所にある『漢中』を与えるといった独断専行を重ねていました。

秦国を打倒した後も平和な時代にはならず、各地で反乱が起きていましたが、その中で項羽は元の君主であり『楚王』として擁立した「義帝」を殺害します。義帝を殺害したことで項羽からは秦滅亡後に盟主として立っていた政治上の立場が失われました。

逆に劉邦は、項羽の義帝殺害に対して大義名分を得たことで、諸侯に対して項羽の討伐を呼びかけることになります。義帝殺害後の項羽と劉邦の対立が『楚漢戦争』です。

18倍もの敵兵を一蹴した、彭城の戦い


劉邦軍が56万という大群で項羽の居城である彭城を占領したことを聞いた項羽は、すぐさま精兵3万を率いて転進、寡兵ながら劉邦軍を敗走させます。その時56万の劉邦軍のうち20万以上の兵を倒したともいわれています。

この戦いは劉邦が攻めた項羽の居城から『彭城の戦い』と呼ばれています。

劉邦の内部工作に悩まされる


圧倒的な大軍で攻めておきながら大敗した劉邦ですが、諦めることは決して無く、敗北を繰り返しながらも度々項羽軍と連戦しました。

そして敗走をしながらも項羽軍に対して内部分裂工作を続けると、元々配下を信用していない項羽は疑心暗鬼になったことから多くの配下が項羽のもとを離れていきました。そしてついには項羽が父のように慕っていた項羽軍の一番の軍師「范増(はんぞう)」さえ項羽のもとから離れていきました。

劉邦との最期の戦い『垓下の戦い』


連戦連勝していた項羽軍ですが、内部分裂工作で重臣や配下がいなくなり、兵糧も枯渇し始めたことから劉邦からの講和提案を受け入れます。

その際、天下をどちらかが制するのではなく天下を二分することで安定を図ることを取り決めました。しかし、時間が経てば経つほど難所にある『漢中』を治める自軍が不利になることに気付いた劉邦は、項羽が講和条件に則り撤退しようとしたところを背後から攻め立てました。

さすがに講和を結んだ直後に反故にすることは想定しておらず、油断していた項羽は初めての敗北を経験することになります。

四面楚歌の語源も!


40万にもなる劉邦軍は『垓下(がいか)』で10万の項羽軍を取り囲み、攻撃を続けました。攻める劉邦軍の中には『天下無双』といわれる韓信もおり、自ら兵を率いて攻め立てましたが、項羽が率いる軍勢に押され、劣勢になると後方に下がっています。

しかし、項羽軍がどれだけ果敢に挑もうと、数の多い劉邦軍の方が次第に有利になり、ついに項羽軍は防塁に籠らざるを得ない状況にまでなりました。10万いたという兵も800まで減らし、防塁の中で夜を過ごしていた項羽の耳に故郷である『楚』の歌が聞こえてきました。

その歌が自軍を囲む劉邦の軍勢から聞こえてくることに気付いた項羽は、敵兵に祖国の人間が多いことから楚がすでに占領されていることを嘆き悲しんだといいます。これが周囲に敵しかおらず孤立した状況をあらわす『四面楚歌』の語源となります。

すでに祖国は占領されていることから、援軍による形勢逆転の手段は無いということを悟った項羽は別れの宴席を設けた後、夜半に全軍800あまりの兵を率いて包囲網を突破しました。その後、劉邦軍による追跡で次第に兵を減らしていき『東城』と呼ばれる地に着いた頃には28騎ほどしか残っていない状況でした。

最期まで伝説的な戦いをする項羽


28騎にまで減った項羽ですが、追ってくる劉邦の軍勢に対して一歩も引かず、100近くの兵を項羽も倒しています。しかしいくら敵兵を倒しても際限はなく、烏江という長江の船の渡し場でついに観念しました。

この烏江から江東に渡れば、そこはかつて項羽が決起した土地でした。しかし当時は8000の兵を率いた項羽でしたが、今となっては劉邦に敗北を喫し、30にも満たない兵しかいません。当時率いた若い兵士たちは全員すでに戦場などで命を落としていました。

野望も潰え、かつての仲間を全員亡くしたのだということに改めて気付かされた項羽は、敗走するのをやめ、残る兵とともに追ってくる劉邦軍を迎え撃って散りました。その際、項羽は数百にも及ぶ兵を倒したともいわれています。

まとめ


項羽は最後の戦いで破れて死んでしまいますが、最後の戦いでも大勢の兵を倒すなど圧倒的な強さを見せています。

韓信が評価したように常に前線に出ていく『匹夫の勇』を見せている事が多いですが、それでも劉邦軍の誰も戦で正面から勝っていないのですから驚きの強さを持っていたと考えて間違えはないようです。一国の王が戦場で100以上の敵を直接倒す、というのは軍を率いるものとして確かに正しくはないのかもしれませんが、軍を率いていながら最前線にいるというのもまたカッコいいですよね!

初陣から通して常勝でしたが鴻門の会で劉邦と許してしまったのが、楚漢戦争最後の敗因につながってしまいました。鴻門の会で許さず、その場で劉邦を処断していたら中国の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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出典:Wikipedia(項籍) / Wikipedia(项羽)

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