天下人「徳川家康」の死因に謎がある?長年定説とされた死因が否定された理由

いわずとしれた江戸幕府の初代征夷大将軍「徳川家康」。

関ヶ原の戦い、二度に渡る大坂の陣と何れも勝利したことで、徳川家の天下人としての地位を盤石にしたことで知られています。
そんな「徳川家康」ですが、長年定説とされた「ある死因」について近年が否定され、新しい死因が論じられるようになっているのです。

長年の定説:死因は鯛の天ぷら

 

1616(元和2)年4月17日、徳川家康は73歳で亡くなりました。 
逝年に関しては数えで75歳ともあらわされることもあります。

鷹狩に行った夜に倒れた徳川家康

 

徳川家康が倒れたのは年明けして間もなく、1月21日のことでした。
この日は日中に趣味の鷹狩に出ており、壮健さを見せていたのですが、その日の夜に宿泊していた田中城(静岡県藤枝市)で倒れてしまいます。

夕食の天ぷらで体調不良に!

倒れた原因とされているのが、その日に夕食として出された天ぷらの原型となる料理です。
この料理は当時京都で評判になっていた新しい料理で、高級品とされた『かやの油』で鯛を揚げ、その上にたっぷりの韮をのせた料理です。

この料理をいたく気に入った徳川家康は大鯛2枚、甘鯛3枚を食したとされています。
当時は揚げる料理が非常に珍しく、いつもは節制している徳川家康もこの時ばかりは箸が止まらなかったようです。
しかし、この料理を食べた夜に徳川家康は倒れてしまいます。

疑問:正月に食べた料理で春先に亡くなる?

徳川家康の死因がこの天ぷらとする説では、珍しい油を使った料理に胃がびっくりした上に食べすぎたとも、食べた魚が傷んでいたのが理由ともされています。
しかし、倒れた後の徳川家康は田中城から移動し隠居後の居城としていた駿府城(静岡県静岡市)で療養をするも、3ヶ月後の4月17日に亡くなってしまいます。

食あたりなどをが原因とするには亡くなるまで時間がかかりすぎているため、長く定説とされていたこの「鯛の天ぷら」を死因とする説は現在否定されています。

新しい定説:胃がん

 

長年の定説が否定されたとすると、現在はどのような定説が出てきているのでしょうか。

御実紀による記録

「鯛の天ぷら」に変わる死因と考えられているのが、徳川家康が「胃がん」だったとする説です。
徳川実紀とも呼ばれる御実紀は、19世紀に編纂された徳川家の公式史書です。

この史書の中で最晩年の徳川家康の様子は、「見る間に痩せていき」「吐血と黒い便が出て」「腹部には手で触って確認できるほどの大きなしこりができていた」と書き留められています。
この症状はいずれも胃がん患者に多く見受けられる症状であることから、「鯛の天ぷら」ではなく徳川家康が「胃がん」を患っていたのが死因とする論拠となっています。

健康に気を遣っていた徳川家康

 

徳川家康は「目がギョロッと大きく」「肥満体型」という印象がありますが、実際の徳川家康は非常に健康に気を遣っていた人物です。
剣術では鹿島新当流や神影流といった流派に習い、鹿島新当流では奥義の「一つの太刀」を伝授されています。

馬術も巧みで、大坪流という古典流派を学んでいますし、弓や鉄砲も名手として実戦でもその腕前で活躍を見せたこともあるといいます。
倒れた日も行っていた鷹狩りも、他の大名と違い決して趣味的活動とは捉えておらず、徳川家康は身体を鍛えるとともに快眠快食のための養生の一環と考えていたそうです。

健康に関しては体を動かすということだけでなく、自分で薬を配合するほどの知識がありました。
自分の隠居先としていた駿府城には薬園があり、そこで調合に使う薬草を育ててもいました。

まとめ

長年、「鯛の天ぷら」を食したことで食あたりにあった、高齢で胃もたれを起こしたというのが徳川家康の死因とされていましたが、現在の研究では全く別の「胃がん」を患っていたのが死因と考えられています。
それでも75歳まで、しかも倒れる直前までは鷹狩りを行い、活発に動いていたのですから症状が出るまで、それだけ元気だったのでしょうね!

逆にそれだけ身を鍛え、武術に精通し、生薬調合も自分でできる知識があり、性格的にも慎重で節制を心がけていた人物がいくら美味しかったからといえ、倒れるほど天ぷらを食べましたというのは確かに腑に落ちないものもあります。

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