
※本記事は、歴史資料(『紫式部日記』『枕草子』)や一般的な学説をもとに再構成した読み物です。
史実として断定するものではありません。
一方で、清少納言が紫式部について何を書いていたのかを見ると、
実は『枕草子』には紫式部への直接的な記述はありません。
「紫式部と清少納言は犬猿の仲だった」
そんな定説を聞いたことはありませんか?
現代のSNSで炎上しそうなほどのバチバチ関係…と言われることもある2人ですが、
実際のところは少し違います。
今回は、2人が残した日記や作品をもとに、
本当に仲が悪かったのか?という歴史ミステリーを読み解いていきます。
目次
なぜ不仲説が広まったのか?

2人が同時代の宮中で働いたことは事実です。
しかし、不仲説の根拠は主に 紫式部の『紫式部日記』の一文 によります。
そこには、清少納言についてこう書かれています(要旨):
「学問をひけらかして得意げにしているのは、どうかと思う。」
やや辛口の評価ですが、ここだけが切り取られ、
嫌っていたと誤解されたという説があります。
清少納言は紫式部をどう見ていた?
実は『枕草子』では、紫式部への直接的な記述はありません。
・批判もなし
・悪口もなし
・感想もなし
つまり、
清少納言は紫式部を意識していない
= スルーしている可能性が高いとも言われます。
むしろ清少納言は、
明るく、鋭く、ユーモアたっぷりな性格。
他者を皮肉る場面はあっても、紫式部個人への攻撃は見当たりません。
宮中の立場が違いすぎた

2人は同じ才能ある女流作家ですが、
実は 働いていた場所も、仕えていた人物も、性格も正反対 でした。
◎ 紫式部 清少納言
◎ 紫式部 … しっとり静か・内向的
◎ 清少納言 … 朗らか・外向的
彰子(上品で落ち着いた皇后)に仕える 定子(明るく活発な皇后)に仕える…
派閥が違う=価値観も違う。
この違いが、後世の不仲だったに違いないという想像を生みました。
紫式部が書いた辛口コメントの真意とは?
紫式部が清少納言を批判したように見える文章は、
実は 清少納言本人ではなく、当時の宮中全体の風潮を批判した と読む説があります。
平安時代は知識をひけらかす文化が人気で、
紫式部はその雰囲気が苦手だった可能性があります。
つまり、
清少納言が嫌だったというより、
自分とは違うタイプの女性像への感想だった とも読めます。
そもそも、会っていない可能性も高い

これが最大のミステリー。
2人が直接言葉を交わしたという記録は一切ありません。
宮中とはいえ、仕えた皇后や部署が違い、勤務時期も重なっていない可能性が高いため、
実際には会ってすらいないかもしれない
という説が現在有力です。
にもかかわらず、後の時代の人々は、
・対照的な性格
・対照的な文学作品
・別々の皇后に仕えていた
このわかりやすい構図から、
2人をライバルとして描きたくなったのです。
【結論】仲が悪かった証拠はない。むしろ創作されたライバル関係
✔ 紫式部が清少納言を嫌っていた明確な証拠はない
✔ 清少納言は紫式部を批判していない
✔ 2人が会った形跡もほとんどない
✔ 後世の“キャラ付け”が不仲説を生んだ
つまり、
本当のところは不仲だったかどうかもわからない。
しかし後世では…
✔ 正反対の才能を持つ2人
✔ 異なる皇后に仕えた女流作家
この対比があまりに魅力的で、
人々は宿命のライバルとして物語化してきたのです。
歴史が生んだ最大のミステリー…
それが、紫式部と清少納言の関係なのかもしれません。