歌人としても知られた戦国武将「太田道灌」その見事な功績をご紹介!

2019.11.17


「太田道灌(おおたどうがん)」は、戦国時代の初期に関東で活躍した人物です。今日ではドラマになったり人気小説に出る、ということも無いことからあまり知名度は高くありません。

しかし、有楽町にある東京国際フォーラムや日暮里駅前、新宿中央公園と複数箇所で銅像が建立されるほど関東では非常に重要な人物です。

実は太田道灌は徳川家康より前に江戸城を築城した、現在の東京に関わりの深い人物です。また、武士としてだけでなく歌人としても勉学についても造詣が深い人物として500年以上前の関東でその名を知られていました。

風流人としての名声も高かった太田道灌の武士としての活躍をご紹介します。



太田道灌は本名ではなく出家後の名前


太田道灌というのは出家後の名前で、本名は「太田資長(すけなが)」といいます。

「武田信玄」や「上杉謙信」も同じく出家後の名前で、出家前はそれぞれ「武田晴信(たけだはるのぶ)」「上杉輝虎(うえすぎてるとら)」という名前で活躍していました。このように出家後の名前で知られた人物というのは歴史上に実は多くいます。

太田道灌が活躍した時代


太田道灌が活躍を始めるのは戦国時代のはじまりといわれる『応仁の乱(1467年(応仁元)年~)』の前からになります。生年が1432(永享4)年の太田道灌は、30代半ばという働き盛りに戦国時代に突入しました。

太田道灌が活躍したのは関東地方一体で、「鶴千代」と名乗っていた幼少期は鎌倉(神奈川県鎌倉市)や足利(栃木県足利市)で過ごしました。「銀千代」と名乗っていた頃は『鎌倉五山』や関東一の学府いわれた『足利学校』で学問を修めたといわれています。




『扇谷上杉家』の重臣・太田道灌の功績


太田道灌の生家である太田家は、関東の名門である『扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)』の重臣の家系です。その太田家の家督を太田道灌が継いだのは1456(康正2)年、数えで25歳の頃です。

当時は28年間という長い期間、断続的に続くことになる『享徳の乱』(1454(享徳3)年~1482(文明14)年)が始まったころでした。この乱は室町幕府の足利将軍家と山内上杉家、そして太田道灌が仕える扇谷上杉家が、鎌倉公方(後の古河公方)の「足利成氏(あしかがしげうじ)」と戦った内乱です。

この享徳の乱に決着が付くのは太田道灌が亡くなる4年前、50歳の頃なのでどれだけ長い間続いたものかが分かります。

江戸城築城


享徳の乱が起きた3年後の1457(長禄元)年、太田道灌は品川に構えた居館から『江戸城』へと拠点を変更します。

これから130年以上経った戦国時代の終わり、徳川家康が建てる江戸城が現在では一般的にいわれる江戸城です。しかし、その江戸城は太田道灌が建てた江戸城を大幅に改修したものです。現在は皇居となっている江戸城の北東部『平川門』付近には太田道灌の追慕碑が建立されています。

主家のお家騒動をしずめる


京都で『応仁の乱』が起きた6年後の1473(文明3)年、8代室町将軍「足利義政(あしかがよしまさ)」の異母兄で、堀越公方と称した「足利政知(あしかがまさとも)」と「足利成氏」の戦いの中で、太田道灌の主君であった「上杉政真(うえすぎまさざね)」が討ち死をするという一大事が起きました。

まだ20代前半という若さであった上杉政真には子がいなかったことから、跡継ぎ問題が発生した扇谷上杉家は混乱をきたしました。この状況に際して、上杉政真の叔父である「上杉定正(うえすぎさだまさ)」を当主にするように太田道灌が家中を纏め上げ、混乱を鎮めました。

武名が響き渡る太田道灌の活躍

『長尾景春の乱』が勃発


1476(文明8年)、太田道灌が仕えていた扇谷上杉家の主家である『山内上杉家』で反乱が起きました。これは山内上杉家の重臣の一族「長尾景春(ながおかげはる)」と叔父である「長尾忠景(ながおただかげ)」の間で起きた跡目争いが原因です。

亡くなった長尾家当主の「長尾景春」の父親の跡目を、息子の自分ではなく叔父が継ぐことになったことに対して長尾景春が恨みを抱き、足利成氏らと結んで挙兵し、主家である『山内上杉家』当主の「上杉顕定(うえすぎあきさだ)」に対して起こした反乱です。

太田道灌、『長尾景春の乱』を鎮圧


上杉顕定や上杉定正が、敵対する『長尾景春と足利成氏』が率いる軍から急襲を受けて敗走した、という知らせを聞いた太田道灌は兵を動員します。そして上杉景春に味方する勢力に対抗し、次々と城を落としていきました。

反乱が起きてから4年後の1480(文明12)年、太田道灌は長尾景春の最後の拠点である日野城を攻め落とし、長尾景春を武蔵国から追放することに成功します。

長尾景春の反乱を鎮めるために、太田道灌が勝ち抜いた戦いは30以上にも及び、上杉家の窮地をほぼ一人で救ったといっても過言ではない大活躍を果たしました。

28年続いた享徳の乱の終結


1482(文明14)年には、長尾景春と連合を組んでいた足利成氏と、上杉家との間で和議が成立しました。この和議により28年、太田道灌が家督を継ぐ前からという長期にわたり続いていた『享徳の乱』も終結しました。

太田道灌、暗殺される


主君に暗殺された名将・太田道灌


上杉家の救世主とも言える太田道灌ですが、内乱を鎮圧してから6年後の1486(文明18)年に主君の上杉定正に呼び出しを受け尋ねた館で暗殺されてしまいました。この時太田道灌は風呂に入ることを勧められており、その風呂上がりという無防備な状態で暗殺されたと伝わっています。

太田道灌が暗殺された理由


なぜ太田道灌は暗殺されたのか、その理由に関しては諸説あります。ひとつは内乱を鎮めた太田道灌の名声が高くなりすぎた結果、軽んじるようになったと主君の上杉定正が感じたため。

もうひとつは上杉定正の主君、上杉顕定が強くなりすぎた扇谷上杉家を危険視して、太田道灌を討つように差し向けた、など他にも様々な理由が考えられています。

太田道灌が暗殺された後の扇谷上杉家


『扇谷上杉家』の重臣の一族の跡取りとして生まれてきた太田道灌は、非常に大きな功績を重ねてきました。しかしその功績から暗殺されてしまい55歳で亡くなってしまいました。

亡くなる際に「当家滅亡」と言い残したといわれており、これは太田道灌が自分が死ぬことで扇谷上杉家には未来はないと予測したことから発した言葉だといわれています。

この後の『扇谷上杉家』は衰退していき、山内上杉家との折り合いが悪くなり戦が勃発します。更に時代が下ると伊勢攻めを命じた「伊勢宗瑞(いせそうずい)」、後の「北条早雲」が独立し『後北条家(鎌倉時代の『北条家と区別するための通称』)』を立ち上げます。

この後北条家はまたたく間に勢力を拡大していき、逆に『扇谷上杉家』に対して攻めてくるようになるなど領地争いをするようになります。

最終的には1546(天文15)年に勃発した『川越城の戦い』で後北条家に負けたことで扇谷上杉家は滅亡してしまいます。太田道灌が暗殺されて60年経ってからの出来事です。

まとめ


『扇谷上杉家』の忠臣として活躍を重ねた太田道灌ですが、最後は主君「上杉定正」の企みか、それともその上杉定正の更に上司である「上杉顕定」の謀略だったか、無念の最期を太田道灌は迎えました。

それでも30もの戦を短期間でこなしたうえで勝利を重ねた太田道灌は文句なしの名将ですし、『扇谷上杉家』の忠臣であり救世主だったというのも過言では無い人物です。

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