北島康介が演じて話題になった「古橋廣之進」フジヤマのトビウオと呼ばれた伝説の水泳選手だった!

2019.10.19


NHK大河ドラマ「いだてん」で北島康介さんが演じたことで話題になった古橋廣之進(ふるはし ひろのしん)。

彼は全てが無くなった戦後の日本において多くの人々に希望と自信を与えた、まさにヒーローのように活躍した水泳選手です。古橋廣之進の活躍するようになったのは戦後すぐ1947年のこと。

そこから1952年までの5年間に数々の世界記録を樹立し日本中を大いに沸かせた水泳選手、古橋廣之進についてご紹介します。



豆魚雷と呼ばれた少年時代


幼少時代


1928年9月、静岡県浜名郡雄踏町(現・静岡県浜松市西区雄踏町)に生まれた古橋廣之進は9人兄弟の長男として生まれました。幼少時代から水泳を始めた古橋はその頃から頭角を現し、地元では「豆魚雷」と呼ばれ地元紙に載るほどでした。

太平洋戦争を経験


旧制中学校(現在の高等学校)に進学した年の冬、太平洋戦争が勃発したことで水泳の活動は中止、さらにその後は軍需産業や食糧増産を計画的に従事させた学徒勤労動員の中で古橋もまた軍需工場での労働をすることとなりました。

そして不運なことに動員作業中に、左中指を切断する事故にあってしまいました。練習はできていませんでしたが、水泳選手にとって水を掻く手の大けがは致命的で、この事故によって自分の選手生命を絶たれたと考えたそうです。

終戦、そして水泳選手としての復活


終戦後、日本大学に進学をした古橋は水泳部の部員募集を知り、一念発起し水泳活動の再開を決意しました。水泳を再開した古橋は日本大学・立教大学・明治大学による三大学対抗戦に出場、400mと800m自由形で優勝を果たしました。

その後は宝塚で行われた第1回国体兼日本選手権に参加、400m自由形で優勝しました。この選手権の帰路、琵琶湖横断1万mの水泳大会に参加し、ここでも優勝しています。




フジヤマのトビウオは戦後日本に希望と自信を与えた

出典:wikipedia.org

日本に希望と自信を与えた世界新記録


1947年、明治神宮水泳場で行われた日本選手権では、400m自由形で「4分38秒4」という世界新記録を打ち出しました。しかし当時の日本は国際水泳連盟(FINA)への加入が許されていませんでしたので、この記録は非公式の数字となってしまいました。それでもこの記録は敗戦後の希望も自信も喪失していた日本中を震わせました。

ロンドンオリンピックでの「幻の金メダル」


古橋が世界新記録を出した翌年1948年はロンドンオリンピックの開催年でした。しかし日本は敗戦国であったためオリンピックに参加が承認されませんでした。これを受け、日本水泳連盟はオリンピックでの競泳競技と同じ日程で日本選手権を明治神宮水泳場で開催しました。

この日本選手権で古橋はふたたび世界記録を更新、400m自由形では「4分33秒42」、1500m自由形を「18分37秒02」を打ち出しました。400mでは自分が前年に出した記録を更新、そして1500mでも世界新記録を出すと偉業を成し遂げました。

この世界記録は同時にロンドンオリンピックの同競技金メダリストの記録を上回っていましたので、日本がロンドンオリンピックに参加できていれば古橋が金メダルを獲得できていたと考えられたことから「幻の金メダル」と呼ばれています。

フジヤマのトビウオと呼ばれるようになった全米選手権


ロンドンオリンピックの翌月の9月、甲子園プールで行われた日本学生選手権水泳競技大会でも古橋は世界記録を更新します。400m自由形で「4分33秒0」の記録を打ち出しています。世界記録を次々更新している古橋はまさしく国民的ヒーローとなっていました。

そして1949年6月、ついに日本が国際水泳連盟(FINA)への加入を果たすと、ロサンゼルスで行われる全米選手権に参加選手として招待されました。この大会で古橋は、400m自由形で4分33秒3、800m自由形を9分33秒5、1500m自由形では18分19秒0で優勝しました。これは3つとも公式な世界新記録でもありました。

この世界記録を打ち立てた古橋に対してアメリカメディアも賞賛し、古橋には「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」という愛称が付けられました。

ヘルシンキオリンピックで現役引退


日本大学を卒業し、大同毛織(現・ダイドーリミテッド)に入社した古橋は翌年の1952年、ヘルシンキオリンピックに参加します。

この大会は日本にとって戦後初、16年ぶりのオリンピックでした。しかし古橋は1950年に患ったアメーバ赤痢の後遺症に苦しんでいたこともあり400m自由形の成績は8位となりました。そして古橋はこの大会をもって引退し、競技者人生を終わらせました。

引退後の古橋廣之進

出典:wikipedia.org

スポーツ界に貢献し、多くの役職を歴任


引退後の古橋は水泳やスポーツ界の発展に携わってきました。

・大同毛織勤務時代の在豪経験から1956年、メルボルンオリンピックの水泳チームマネージャーに就任。
・1966年、大同毛織を退職し日本大学専任講師となる
・1966年から日本水泳連盟の役員、1985年から2003年にかけては会長に就任
・後進を育てるために1969年に「品川とびうおスイミングクラブ」、翌年「とびうお杉並スイミングクラブ」を設立
・1976年からは国際水泳連盟の副会長に就任
・1990年から1999年にかけて日本オリンピック委員会(JOC)会長を務める。

【名言】魚になるまで泳げ


「魚になるまで泳げ」この言葉は古橋が後輩や後進の選手たちに言っていた言葉です。

大学時代の古橋は、コーチや監督もまだいなかったので、創意工夫を重ねて練習を重ねていました。特に戦時中の事故により左中指を失っていた古橋は周りよりも練習も努力も必要と考えており、一日に2万m、場合によっては3万mと泳いでいました。まさに魚になるまで泳いだ古橋だからこその名言です。

【エピソード】マッカーサーから激励を受けた古橋


ロサンゼルスで行われる全米選手権に参加が決まった古橋、しかし当時の日本はGHQの占領下にあったため通常ビザを取得するのは無理でした。そのためGHQ本部に事情を伝えてビザの発行を頼みに行きました。

現地では最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥からの呼び出しを受け、部屋に行きました。するとマッカーサーから「堂々と戦ってアメリカをやっつけてこい。負けたら、帰りのビザは知らんよ」と激励の言葉を駆けられたそうです。

実はマッカーサーは1927年から2年間アメリカのオリンピック委員会の委員長を務めていたこともあり、スポーツに関して非常に関心のある人物でした。

ちなみにマッカーサーは࣭ヘルシンキオリンピックに日本が出場できるように国際オリンピック委員会(IOC)の重要メンバーやアメリカのスポーツ関係者と連絡を取っていたことが現在の研究で分かっています。

まとめ


古橋廣之進は戦後の打ちひしがれた空気の中、世界記録という輝く成績で日本を沸かせた国民的ヒーローでした。テレビ放送が始まる前の時代のため、現在ではメディア映像として出てこないのでなかなかその姿を見ることはできませんが、自分で更新した世界記録を次の大会で自分で更新してしまうというのは本当にカッコいいですね!!

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出典:wikipedia.org(古橋廣之進)

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