『弘法も筆の誤り』達人も時には失敗をする意味とは別に、弘法への称賛も含んだことわざだった!

"河童の川流れ"や"猿も木から落ちる"と同じように、その道に長じた達人でも時には失敗する、という意味で使われる「弘法も筆の誤り」ということわざ。

実は称賛の意味も含まれていることをご存知でしょうか?

今回は弘法という人物は誰なのか、そして弘法は何をどう間違えたのか、なぜ称賛の意味も含まれているのかなどを調べてみました。

弘法って誰?

「弘法も筆の誤り」に出てくる弘法という人物は、弘法大師の略で、真言宗の開祖である『空海』のことです。

弘法大使、こと空海について

弘法大師こと空海は、真言宗の開祖であり、日本に真言密教を伝えた人物でもあります。

真言宗の総本山として京都の「東寺」の他にも、修禅の道場として「高野山」も開いています。今日の日本仏教にも非常に大きな影響を与えた人物といっても過言ではありません。

天才・弘法大師

弘法大師は当時から天才として知られていました。そこでいかに天才だったか、いくつかのエピソードをご紹介します。

地方出身ながらエリートコースを邁進

774〈宝亀5〉年に讃岐国(現在の香川県)に地方官の息子として生まれた弘法大師は、18歳にして当時の官僚育成機関「大学寮」に入ります。

大学寮では儒学や詩学について学んだとされています。地方官の息子と、決して高い地位に生まれたわけではありませんが、若くしてエリートコースに進んでいたようです。

僧侶になったばかりなのに留学僧として国から送り出される

804年(延暦23)年にその非常に優れた知識を見込まれて留学僧として唐国に渡ります。

前年に医学を学ぶための薬生として唐に行く予定でしたが、天候に恵まれず断念。そして翌年になぜか僧侶となって唐に渡ったのです。

その1年もの間に出家し、日本とは比べ物にならないほど仏教研究が進んでいた中国に留学してくるように言われるほどの才を見せつけたのかもしれませんね。

でも弘法大師の出家した年が不明なので、なぜ医学を勉強するために唐に渡る予定だったのに留学僧になったのか、その理由は不明とされています。

出家した年に関してはいくつかあげられていますが、有力な説では804年(延暦23)年の唐に行く直前のことだったといわれています。

3ヶ月で真言密教の正当継承者になる

1年間長安に滞在した弘法大師は、最初の半年を梵語(経典の原典が書かれたサンスクリット語のこと)の研究に費やすと、残りの半年で当時最先端の仏教だった真言密教をマスター。正当承継者として認められます。

ちなみに、半年のうち後ろの3ヶ月は日本に持ち帰る法具や経典作り、歓待に使っていますので実質3ヶ月で真言密教をマスターしたことになります。

建築学や薬学もマスターする

長安を離れ、越州に足を運んだ弘法大師は、現地で経典の収集を進めると共に、建築学や薬学について学んだようです。

そして日本に戻った弘法大師は土木事業の成功もしていますので、そういった知識はこの期間に習得したのかもしれません。

20年の留学期間が、わずか2年で帰国(事後報告)

入唐の際、弘法大師の留学期間を20年としていました。しかし、ものの数ヶ月で真言密教もマスターしてしまった空海は、わずか2年で日本に帰国してしまいます。

ちなみに帰国理由は滞在費用がなくなったからと、されています。

20年留学する予定だった人がまさかの2年で帰ってきてしまったので、日本の朝廷も最初は立腹すると同時に困惑したようで、入京(京都の平安京へ入ること)が許されるまで3年ほどかかりました。

帰国後の活躍といえば

入京後の弘法大師の活躍は枚挙にいとまがありませんが、有名どころをあげると「高野山の開山」「出生地である讃岐国(現在の香川県)にある満濃池(まんのういけ)の改修工事」「東寺を道場にする」といったものがあります。

弘法大師は何を書き損じたの?

わずか数ヶ月で最先端の仏教である真言密教をマスターした弘法大師(空海)には、文字の達人「能書家」という一面もあります。

文字の達人として知られた弘法大師

弘法大師は能書家であり、非常に優れた文字を書くと知られており、同じ時代に生きた能書家の嵯峨天皇(さがてんのう)と橘逸勢(たちばなのはやなり)と合わせて「三筆(さんひつ)」と呼ばれています。

また、弘法大師は「入木道(じゅぼくどう・習字の事)の祖」とも呼ばれ、篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白といった当時の書体一式全てを得意としていました。

弘法大師が書き損じた文字

非常に優れた能書家の弘法大師が文字を間違えたのは、同じく三筆として名前のあがる嵯峨天皇の勅命で書いた大内裏(だいだいり)「應天門」の額に書いた「應」の字だとされています。

現在は「応天門」と呼ばれるこの門は朝廷内での政務や重要な儀式を行う朝堂院の正門でもあることから非常に重要な門でしたが、弘法大師はその門に掲げる額の字を間違えてしまいました。本来「まだれ」の「應」の字を、「がんだれ」にして書いてしまったといいます。

この故事から、"どれだけ優れたその道の達人でも間違うことがある"という意味で『弘法も筆の誤り』ということわざが生まれました。

弘法大師の大胆な失敗の取り返し方

「應」の字を間違えてしまった弘法大師ですが、なんと逆転の一手でこの間違いをリカバリーしてしまいます。

通常であれば、掲げられた額を一旦おろして書き直すと考えるところですが、弘法大師は違います。

なんとあげた額をおろすことをせず、筆を投げつけて点を加えることで、がんだれをまだれに直してしまったのです!

この大胆な修正方法から、弘法も筆の誤りには「さすが弘法大師、直し方さえ常人とは違う」と称賛の意味も込められて生まれたようです。

弘法大師が間違えた應の字は見られない

残念なことに、この弘法大師が書き損じた応天門の額は現存しませんし、なにより応天門自体が現存していません。

866(貞観8)年の「応天門の変」での放火をはじめ、応天門は度々焼失したことから、1177(治承元)年に焼失して以降は再建されなくなってしまいました。

まとめ

「弘法も筆の誤り」は弘法大師(空海)が額に書いた「應天門」の字を間違えた、という故事に由来することわざでした。

仏教・建築・薬学・書と様々な学問に精通した弘法大師でも間違える時はありますが、常人が打たないような大胆な手で修正をしたという逸話からは弘法大師の大胆さを感じさせますね。

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