神秘的な雰囲気に包まれた、秘境。山に囲まれた土地が多いこの日本にも、実は数多くの秘境が存在しています。
特に「日本三大秘境」といわれる場所は、日本古来の文化が残る景色として最近では有名な観光地になってしまっている場所まであります。
そこで、今回は日本人なら知っておきたい日本三大秘境をご紹介します。
目次
合掌造りで知られる「白川郷(しらかわごう)」
岐阜県に流れる庄川、その流域にある「白川郷」は合掌造りの建物が寄り添うよう広がっている村です。合掌造りとは日本住宅建築様式の1つで、45度~60度ほどの急傾斜の屋根を持つ建物を意味します。
白川郷は世界遺産として登録されており、それ単体というより「小屋内を利用するため叉首構造の切妻造り屋根とした茅葺屋根の家屋」を持つ文化が評価されて登録に至りました。
現在では日々観光客が訪れる人気観光地になっていますが、現在でも秘境であった時代の生活を追体験することは可能です
平家の落ち武者が住んだのがはじまり?
白川郷の集落は平家の落ち武者の末裔によって保存されている村だと言われています。
その言い伝えによると、源平合戦で源義経が京都に入る前の頃、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が流れ着き、この白川郷で隠れ澄んだのがはじまりという伝承があります。
古くから残る大家族制度も独特の合掌造りも、平安時代以前の名残なのだとか。しかし、実際に白川郷に人が住んでいる、というのが確認できるようになるのは鎌倉時代も中期になってからの事です。
親鸞聖人の弟子であり後鳥羽上皇の孫でもある「嘉念坊(かねんぼう)」という僧侶が、白川郷の付近で布教活動をしていることから、この地に人が住んでいたということが分かります。
初め美濃国で布教を試みた善俊ですが、白山長滝寺の勢力に阻まれ庄川沿いに飛騨に入ったそうです。しかし、白川郷の鳩谷に道場を構えて熱心に教えを説き、農民たちを中心に広まったのだとか。
有名な合掌造りは養蚕業のためにはじまった
もともと白川郷は豪雪地帯だったことから急勾配の屋根の建物が作られたと考えられているのですが、その他にも養蚕業に活用されたと言われています。
合掌造りという特殊な構造によって小屋内のない広い空間が生まれ、その空間に養蚕棚が設置されるようになったそうです。
もともと急勾配で小さな屋根は作りにくいものの、より養蚕棚を設置するために急傾斜にして空間を広げたことで、このような合掌造りになったと考えられています。
茅葺を葺き直すのにも欠かせない互助制度「結」
現在でも合掌造りの茅葺屋根の葺き替え制度が残っているのも、白川郷をはじめとする合掌造り建築の文化です。
葺き替え自体は30年~40年を目途に行われるのですが、その労力は莫大なものです。しかしそれを白川郷の人たちは古来より助け合いと協力で行ってきました。
田植えや稲刈りなど人数が必要となる労働を互助する制度「結」というのは全国にあったそうですが、白川郷の場合はその互助労働の中に茅葺屋根の葺き替えまで含んでいたのが最大の特徴となっています。
近年では人口の過疎化や高齢化、産業の衰退化などで「結」の維持が難しくなっているのが事実で、白川郷も存続の危機と言えるかもしれません。
ただ、その一方でボランティアなどが各地から集まり、共同で葺き替え作業を行うなど状況も変わってきました。この美しい白川郷は今後も残していきたい文化ですので、ぜひ積極的に保存してもらいたいです。
世界遺産登録された白川郷
白川郷は1995年に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として、日本で6件目の世界遺産に登録されました。
景観の美しさだけではなく、そこにある自然や文化を含め、保存の意味でも世界遺産に登録される形となりました。事実、この景色は一度見たら「守らなくてはならない」と思ってしまうほどです。
標高1,000m以上の峠に囲まれた「祖谷(いや)」
徳島県西部にある「祖谷」は標高1,000m以上の峠に囲まれた場所で、祖谷という地名には「祖霊のいる地」という意味があるともされていますが、そもそもなぜ「祖谷」を「いや」と読ませているのかわからないことから、地名の由来は判明しきっていません。
山道を越えない限り外部との往来が困難だったことから、独自の生活習慣や習俗、文化や民俗などが残る地域でもあります。近年は保存だけではなく復興に対する取り組みも熱心で、1989年には日本の秘境100選にも選ばれている場所です。
平家落人伝説
ここ祖谷には屋島の戦いで敗戦した平家の落人が住み着いたという伝説がある他、鎌倉時代の木工品を加工職人「木地師」が移り住んだのが始まりという話もあります。
具体的なことは詳細がわからないものの、かつては小規模な土豪が住民を隷属させて支配するという構図の生活様式が続いていたともいわれています。
かずら橋
祖谷周辺には奇橋として知られるかずら橋があります。そのかずら橋はサルナシなどの植物を使った作られた原始的な吊り橋であり、古き良き日本の文化を感じさせる橋です。
建造には様々な説があり、空海が山間にある川を渡るのに難儀している祖谷の人のために架けたとも、平氏の落人がいつでも切り落とせるように架けたのがはじまりとも言われています。
ただ、空海は平氏よりも前の時代なので、平氏の落人が住み着いたのがはじまりという上記の説とは辻褄が合いません。あくまでも言い伝えは言い伝えなのかもしれませんね。
近年は観光地としても人気です。周辺には人力でロープを引きながら渓流を渡ることができる「野猿」もあり、人力ロープウェイとして人気の観光スポットとなっています。
日本民俗学の祖・柳田國男の出発点となった地「椎葉村(しいばそん)」
椎葉村は宮崎県の北西部にある自然豊かな山々や木々に囲まれた土地であり、日本古来の文化が残っている地域でもあります。その美しさも相まって日本三大秘境の1つとされています。
兵士の残党が落ち延びたのがはじまり?
伝承では壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたのが椎葉村のはじまりとされています。
1191年には追討のため那須宗久が下向するのですが、平氏に再挙の見込みがないと判断され、それ以上追討されることはなかったそうです。
椎葉村滞陣中、宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が後に婿を娶らせ、那須下野守と名乗らせたという伝承も残っています。ちなみに椎葉村という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていたことに由来するのだとか。
広大な土地ながら可住地面積が僅か4%の椎葉村
椎葉村は九州山地中央部にある標高1,000m〜1,700m級の山々に囲まれた場所にあるのですが、耳川に一ツ瀬川、小丸川という河川が山間部を縫うように流れているため居住するために仕える土地が狭くなっています。
これらの事情から、537.3km²と437.49km²の横浜市や534.33km²の姫路市以上の広大な土地がありながら、可住地面積は村域の僅か4%なのだとか。それもここが秘境と言われる理由ですね。その川や山の中腹の緩斜面に集落が存在しています。
柳田国男が初めてフィールドワークを行った椎葉村
日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに明治42(1909)年に『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』という書を纏めました。
これには当時の椎葉村長の協力も大きかったそうで、当時の住民たちが従事していた焼畑農業とイノシシ狩りについて詳しく書かれているそうです。
まとめ
日本はすでに各地に大都会が開拓されているものの、まだまだ田舎町と呼ばれる場所は多いです。むしろ地方は過疎化が進み、ある種の秘境と化している地域も少なくありません。
その中でも日本三大秘境として多くの観光客で賑わう白川郷もあれば、人がなかなか住むことのできない椎葉村などもあります。ぜひ、興味がある方は懐かしさを感じる日本の原風景を見に行ってみてはいかがでしょうか?