戦国大名・伊達政宗の軍師、片倉小十郎の忠義に篤い逸話をご紹介!!

戦国大名として抜群の知名度を誇る「伊達政宗(だてまさむね)」。
彼には右腕として知られる忠臣がいます。
その人物の名は「片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)」。
彼は、伊達政宗の家臣として多くの功績を挙げてきました。

戦国武将、伊達政宗を誰よりも支えてきた家臣、片倉小十郎の逸話が伊達政宗への忠誠心の高い話でしたのでご紹介します。

伊達家の忠臣、片倉小十郎

 

片倉小十郎とは、片倉家の当主が代々踏襲して名乗る通称です。
伊達政宗が生きたの時代には三人の片倉小十郎が登場していますので、それぞれ紹介します。

初代・片倉小十郎

初代の片倉小十郎となる人物は名を「片倉小十郎景綱(かげつな)」といいます。

伊達政宗の父、「伊達輝宗(だててるむね)」によって、伊達政宗の近侍(きんじ・側に仕える役目)と取り立てられます。
後に成長した伊達政宗が戦場に立てば軍師として、内政面でも重臣として活躍するようになります。

伊達政宗が「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」に恭順した際には、豊臣秀吉が直臣として取り立てようと動くほどその才を認められますが、片倉小十郎は伊達政宗への忠義を選び、その誘いを断っています。

伊達政宗が1602(慶長7)年に仙台藩初代藩主になると、一国一城令が敷かれた中でも特例で残された、仙台の防衛上最重要になる白石城の城主に任命されます。
伊達政宗にとって片倉小十郎なら大事な白石を任せられるという絶体の安心があったのではないでしょうか!

 

伊達政宗への忠誠心を忘れないように、片倉家の当主は片倉小十郎の通称を継承するようになったそうです。

二代目片倉小十郎

二代目の片倉小十郎こと「片倉重長(かたくらしげなが)」は片倉景綱の息子です。
大阪夏の陣のでは若くして武功を挙げて、名声を上げました。

片倉重長は幼いころから伊達政宗に期待されるほど、父に似た智勇兼備の人物でした。
また、父の片倉景綱から受け継いだのは才能だけでなく、もちろん伊達家への忠義心も受け継いでいました。

三代目片倉小十郎

片倉重長の養子となって、片倉家当主と小十郎の通称を継いだのが「片倉景長(かたくらかげなが)」です。
この片倉小十郎もまた伊達家に忠義を尽くしています。

伊達家取り潰しの危機となった仙台藩のお家騒動『伊達騒動(寛文事件)』では、混乱で乱れる仙台藩をまとめ上げて危機を救いました。

歴代の片倉小十郎を3名紹介しましたが、今回の逸話では伊達政宗を幼い日から支えてきた、初代片倉小十郎、片倉景綱の逸話を紹介します!

戦場で伊達政宗を危機から救った咄嗟の行動

 

片倉小十郎は伊達政宗の側近として仕え、軍師など頭脳的な役割を重荷になっていました。
しかし剣術も得意な一面もあり、戦場では伊達政宗の命の危機を武の腕前で助けたこともあります。

人取橋の戦いで窮地に陥った伊達政宗を救う

1586(天正13)年に起きた「人取橋の戦い」は、伊達輝宗を二本松城主の「畠山義継(はたけやまよしつぐ)」が拉致するも両者が死亡するという事件を発端に起きた、伊達軍と畠山軍のお互いにとって弔い合戦という因縁深い戦いです。

この戦いは伊達軍7,000が、畠山軍は反伊達軍連合30,000の兵を相手にしました。
圧倒的な兵数の差により、伊達軍の本陣は崩れてしまい伊達政宗は敵に囲まれてしまうという事態に陥ることも。
この伊達政宗の窮地を発見した片倉小十郎は、咄嗟に「小十郎やっているな!政宗がここで武功を挙げるところを見ているぞ!」と伊達政宗のふりをし、敵兵を一手に引き受けることで伊達政宗の危機を救ったのだとか。

自分の身を危険にさらしてでも、主君の伊達政宗の危機を救う、まさに忠義が無くてはできない行動ですね!

豊臣秀吉への恭順を伊達政宗に決意させた一言

 

豊臣秀吉の軍はハエ

1590(天正18)年、伊達家の家臣たちは2つのグループに分かれていました。
なぜなら、豊臣秀吉による小田原攻めが始まったことで、豊臣秀吉に対して抗戦するか、恭順するかで意見が対立していたからです。

伊達政宗自身も抗戦か恭順か決めあぐねていたのですが、そこに片倉小十郎が伊達政宗に決心させる言葉をかけました。

その言葉は「秀吉の軍はハエのようなものです」といったものでした。
伊達政宗がその真意を聞けば、「ハエも1匹2匹なら払ったり潰しせますが、秀吉の大軍と言うのは大発生をした蠅です。これいくらたたき払いのけても潰しても後から後から湧くのできりがないのです。それと同じく、秀吉の軍を2、3回勝って追い払っても、後から後から大軍を送り出してくるでしょうから、こちらが疲弊してしまい、防ぎきる事ができなくなります。」と返しました。
この言葉を聞いて、伊達政宗は豊臣秀吉への恭順を決めたといいます。

当時の伊達家は勝利を重ねて領地を広げている調子のいい時期でもありました。
そんな中で言いにくい負けを認めるという説得を主君の伊達政宗にするというのは容易ではなかったでしょう。

伊達政宗が抗戦に傾いていたらその場で斬られていたかもしれない状況で伊達家存続のために恭順の説得したのは、片倉小十郎の忠義の心からでしょう。
そしてなにより、伊達政宗が最後まで片倉小十郎の説得を聞いたのは、伊達政宗が片倉小十郎を信頼していたからこそ、なのではないでしょうか。

姉も伊達政宗の忠臣

 

乳母 喜多

片倉小十郎より20歳上の異父姉の喜多は、伊達政宗の乳母でした。
喜多は文武両道に通じており、兵法などを学んだ賢女だったといわれています。

伊達政宗を養育係として育て、後に伊達政宗の正室のお付きに任じられるほど信頼を得ていました。

伊達家を出ようとする弟・片倉小十郎を諭す

片倉小十郎は、奥州という日本の端ではなく、京など中央で自分の才覚がどれほどのものか確かめたくなったのでしょう。
「諸国を巡って名将に仕えて、自分の名を天下に広げたい。」という思いを姉である喜多に相談しました。
それに対して喜多は最初容認する素振りを見せます。

しかし、片倉小十郎が身の整理をして伊達家を出ようとするとその言葉を一転させ、「本当の忠臣というのは、最初の主君に最後まで忠義をつくすものでしょう。それなのにまだ幼い主君を捨ててどこへ行くというのですか。そもそも他の領地にどんな名君がいても、伊達家と違ってなんの功績もない新参者を当主の近侍として登用するようなことはないとなんでわからないのですか。心機一転、他国に仕える気持ちでもう一度忠義を尽くして仕えてみなさい」と叱責して伊達家を出ていこうとする異父弟、片倉小十郎を諭したといいます。

最初に出ていくと相談されたときに反対したら激昂されて取り返しのつかないことになると考えた喜多は、とっさに一度快諾したふりをして出る直前に踏みとどませる手段に出たといいます。
異父弟と主君の伊達政宗を思ってきかせた機転だったそうです。
姉弟そろって伊達政宗に忠義を誓う誠実な人物だったんですね!

現在も続く片倉家の伊達政宗への忠誠

 

片倉家は終戦後に華族制度が無くなると、代々神官の家系であることから、伊達政宗を祀る仙台市にある青葉神社の宮司の職を継いでいます。
片倉小十郎の伊達政宗への忠誠心は400年以上続く不滅の心なんですね!

まとめ

伊達政宗の忠臣、片倉小十郎の逸話を紹介してきました。
命を懸けて伊達政宗の危機を救ってきた片倉小十郎の思いはしっかりと伊達政宗に届いていたからこそ、仙台藩でも最も重要な防衛拠点でもある白石城を一任するほど信頼していたようです。
美しい主従関係ですね!

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