戦国時代の合戦で活躍した馬たち。戦国武将に愛された馬についてご紹介!

戦国時代といえば合戦。
合戦といえば勇ましい鎧を着、馬に乗った戦国武将の姿を思い浮かべるのではないでしょうか。

今回は戦国時代の戦場で活躍した馬の大きさや種類、そして戦国武将の愛馬の逸話をご紹介します。

馬の大きさと馬の種類

 

戦国時代に、戦国武将を乗せるなどの活躍を見せた馬。
その大きさや種類について見ていきましょう。

戦国時代の馬の大きさ

大きさをあらわす「寸」

日本には古くから馬の大きさをあらわす「寸」という単位があります。
これは通常の単位とは違い「すん」ではなく「き」と読みます。

読み方は違いますが、長さは共に同じで一寸は約3cmになります。

体高を計る位置

馬の体高は鬐甲(きこう)とよばれ、背の隆起部分の一番高い部分から地面までの高さになります。
馬の大きさはこの鬐甲が四尺を基準とします。

表記する際などは四尺は省略して、「寸」の部分だけであらわされます。
例えば、四尺二寸の体高の馬なら「二寸」となります。

馬の大きさはどれくらいだったか

馬の大きさの基準となる四尺は約120cm。
そこから一寸づつ3cm刻みでサイズ分けがされ、九寸すなわち147cm以上の馬は「長けに余る」とされたそうので、150cmを越える馬はめったにいなかったと考えられます。

西洋馬のサラブレッドが160~170cmほどですので、体高を比較すると相当違い、当時日本にいた馬は小柄だったことが窺えます。

戦国武将が乗った馬の種類

この小柄ながら、戦国武将が乗り戦場を駆けた馬の種類は、本州で唯一の在来種「木曽馬」という馬です。
体高は前述した通り120cmほどで、種類としてはポニーサイズの小柄な馬になります。
短足胴長でありながら、体幅が広い体格をしていました。

山間部に住んでいることと、どっしりした体型をしていることから、頑強で揺れが少なく安定して騎乗できるそうです。

現在は200頭もいない希少な動物という事もあって、時代劇や大河ドラマで見る武将はサラブレッドに乗っています。
サラブレッドは木曽馬に比べて背が高いだけでなく、足も細長いため、実際に戦国時代に見られた風景とは全く違うものと考えた方がいいかもしれませんね!

また、サラブレッドのように早く走れる馬でもありませんので、鎧を着た武将という100kgの重量を乗せた場合、早くても人が走るのと大差ない速さを短い時間走るのが精いっぱいだったとも考えられています。

戦国武将の愛馬たち

 

戦国武将に愛された名馬たちは戦場で数々の逸話を遺していますので、その中からいくつかご紹介します。

長宗我部元親とその愛馬「内記黒」

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が豊臣秀吉から拝領した内記黒は、九州平定での島津軍との戦いの一つ、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」で、活躍しました。

戸次川の戦いでは豊臣軍の作戦の失敗したため、薩摩軍の猛攻受け、長宗我部元親は20騎ほどの兵まで数を減らしました。
もはやこれまで、と決死の覚悟をして敵陣に斬り込もうとしたところに、戦場ではぐれていた内記黒が姿をあらわし、長宗我部元親をその背中に乗せると敵中を突破したといいます。

この内記黒は長宗我部元親の墓所の近くに葬られ、現在も「愛馬之塚」として残っています。

明智秀満と愛馬「大鹿毛」

山崎の戦い(天王山の戦い)で、豊臣秀吉軍に敗れた明智秀満あけちひでみつ)は主君、明智光秀の居城、坂本城を目指していました。
しかし、大津まで来たところで豊臣軍に囲まれました。
そこで明智秀満は陸路を断念して、大鹿毛に乗ったまま琵琶湖の中へ進みました。

無事に琵琶湖を渡りきった明智秀満は坂本城に帰還できたといいます。

豊臣秀頼と愛馬「太平楽」

豊臣秀頼は戦場に立つことなく大坂夏の陣でその命を落としました。
そのため太平楽に乗って合戦に挑んだことはありません。
1980(昭和55)年に行われた大坂城三ノ丸跡の発掘調査で、頭蓋骨が一つと、別の首のない2人分の骨、そして馬頭の骨が一つ発見されました。

頭蓋骨の方ですが、その骨の特徴や、類推された体格から豊臣秀頼のものではないかとされています。
また、馬の方も170cmを越える非常に大きな馬であると判明したことから、日本一の馬といわれていた太平楽だと考えられています。

戦場には一緒に立てませんでしたが、弔われた後もそばに寄り添っていたんですね。

馬コレクター織田信長

 

戦国時代を生きた人物の中で、一番の知名度を誇る織田信長。
彼は、非常に馬を愛した人物でもありました。

馬大好き

織田信長は非常に馬を愛しており、馬術の訓練は若いころから欠かさず、安土城や岐阜城の城下に馬場(乗馬するための土地)を用意していました。

織田信長が馬を愛していたことは全国に広まっていたようで、馬が献上されることが多かったようです。
例えば伊達家からは奥州一といわれた白石鹿毛、徳川家康から鹿毛の馬、他にも毛利氏家臣の小早川隆景や北条氏政なども織田信長に馬を献上しています。

また、織田信長は馬を集めるだけでなく、馬を褒美とすることもあったようで、蒲生氏郷(がもううじさと)は小雲雀という馬を拝領しています。

京都御馬揃え

織田信長が自慢の馬を公開したのが1581(天正9)年の京都御馬揃えです。
これは軍事パレードであり、織田軍の力を誇示し、各地の大名をけん制する目的ももちろんありましたが、どうやら自慢の馬を周りに見せたがっていた節があります。

なぜなら、このパレードには織田信長の愛馬「鬼葦毛」「小鹿毛」「大鹿毛」「遠江鹿毛」「河原毛」そして蒲生氏郷が拝領することになる「小雲雀」の6頭が参加しています。
織田信長が自慢の名馬を見せて満悦していたように思えます。

まとめ

戦国時代には武将に愛された名馬が数多くいました。
サラブレッドよりも小さいとはいえ乗れば人は2m近くの高さになりますし、木曽馬はサラブレッドと違ってがっしりした体型をしていますので、鎧を着た武将が乗っていたら相当な迫力があったでしょうね!

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