戦国武将・本多忠勝の兜がかっこいい!鹿の角の兜に込めた徳川家康への忠義の逸話!!

戦国武将の兜は様々なデザインのものがあります。
そして、本多忠勝の兜もまた大きい鹿の角が印象的です。

しかし、この鹿の角は決して目立ちたいだけで付けられたのではなく、深い意味が込められていたのです。
本多忠勝が兜の意匠に込めた主君、徳川家康への忠誠心の篤い逸話をご紹介します。

本多忠勝が兜の意匠に込めた思い

 

鹿角脇立兜と呼ばれる本多忠勝の兜。
この兜が鹿の角をしているのは、本多忠勝が徳川家康への篤い忠義の心を常に抱いている、という証でもありました。

鹿の角の意匠にしたのには訳がある

1560(永禄3)年、本多忠勝が若干13歳の時に起きた「桶狭間の戦い」で、当時徳川家康の主君だった今川義元が討たれてしまいました。
しかし、この時徳川家康達が考えていたのは仇討ちでは無く、この今川家が混乱している隙に独立することでした。

一刻も早い独立を考えていたため急いで故郷の岡崎城を目指していた徳川家康たちですが、岡崎の手前を流れる矢作川が前日の大雨で増水しており、先に渡れなくなっていることに気付きました。
困り果てた徳川家康達ですが、その前に一匹の鹿が現れました。

鹿は川のある所から川に入ると、悠々と渡って対岸まで渡っていきました。
その姿を見た徳川家康たちはそこが浅瀬になっていることに気付き、その浅瀬を利用して川を渡り、悲願の岡崎城入城を果たしたのでした。

本多忠勝は、この時の鹿は伊賀八幡宮の使いが姿を現して、徳川家康を助けてくれたのだと考えました。
そしてこの鹿のように、自分が徳川家康をお守りするのだ、という決意を込めて鹿の角の鹿角をした兜を作ったと言われています。

現在も残っている本多忠勝の兜

現在も本多忠勝の鹿角脇立兜は残っており、岡崎市にある「三河武士のやかた家康館」で保管されていますが、一般公開はされていません。

天下人も褒めたたえた家康への忠誠

小牧・長久手の戦いで見せた忠義心に、敵将の豊臣秀吉も感涙!

徳川家康が、織田信雄と連合軍を組んで豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦い。
この戦いでは本多忠勝は小牧山城で留守居役を任されていました。
そこに、長久手の戦いで自軍が敗れたことを聞いた豊臣秀吉が2万の兵を率いて長久手へ移動しようとしているという知らせが入ります。

徳川家康の危機を察知した本多忠勝は、500名の軍勢を率いて豊臣秀吉の軍勢に龍泉寺川を挟んで対峙しました。
豊臣秀吉は2万もの大軍を率いていたので圧倒的に不利な状況でしたが、本多忠勝は臆することなく自分の愛馬に川の水を飲ませる姿を豊臣秀吉の軍に見せつけたのです。
これは余裕があるような素振りを見せることで、豊臣秀吉軍を挑発するという、豪胆な行動でした。

この本多忠勝の挑発に対して豊臣秀吉は、徳川家康を後ろから攻めようとする自分からわずかな時間でも時間を稼いで主君を守ろうとするその忠義の心にいたく感動し涙を流したといいます。
そして、この場で本多忠勝を討ち取ることを禁じました。

和睦の後

小牧・長久手の戦いの後に徳川家康が豊臣秀吉に恭順を誓うと、徳川家康に本多忠勝を呼ばせました。
本多忠勝を呼ばせた豊臣秀吉は、源義経の忠臣として名高い佐藤忠信(さとうただのぶ)の兜を天下で一番の忠義者に渡したいと言って本多忠勝に渡したといいます。

本多忠勝の辞世の句

 

最後まで徳川家康への忠義を貫いた

死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

本多忠勝は辞世の句で、主君であった徳川家康への恩を思うとまだ死ねないまだ死にたくない、とその思いを読んでいます。
死んで忠義を尽くせなくなるのが心底嫌だったというのが、忠臣本多忠勝らしい辞世の句ですね。

まとめ

本多忠勝は兜は、まだ幼いともいえる日に心に決めた、徳川家康への忠義心を形に表したものだったのです。
命を差し出してでも徳川家康を守ろうとする小牧・長久手の戦いでの姿や辞世の句を見ると、その思いは最後まで色あせなかったようですね!

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