戦国武将だけど歌人?!太田道灌の『山吹の里伝説』が深い!幼少時代の利発さもわかる逸話もご紹介

「太田道灌(おおたどうがん)」は、戦国時代が始まる前から関東で活躍した人物ですが、近年ではメディアで取り上げられることも少なくなっていることから、歴史好き以外の人からの知名度はそれほど高くない人物です。

しかし、太田道灌は徳川家康より前に江戸城を築城し、現在は皇居として残る江戸城の原型を作った人物でもあります。
また、武士としての才能が優れていただけでなく、勉学についても造詣が深く、文化人としての側面も持っていた人物です。

そんな太田道灌の逸話も和歌に関わるものであったり、聡明さが分かるものです。
ここでは、この太田道灌の逸話についてご紹介します。

学者・文化人としての太田道灌

 

太田道灌は、関東の名門『扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)』の重臣として仕え、太田家の当主として数多くの戦場で活躍しました。
その一方、学者や歌人としての一面も持っていました。

兵法の学者でもあった太田道灌

幼いころから頭脳明晰だった太田道灌は家督を継いだ後の忙しい中でも、勉学をおろそかにしませんでした。

兵学に関しては古代中国から伝わる『易経(えききょう)』で軍師に必須の教養『易学』を学んだ他、兵法書の『武経七書(ぶけいしちしょ)』にも精通していたといいます。
当時の管領「細川勝元(ほそかわかつもと)」に、兵書を贈ったこともあるそうです。

文化人としての太田道灌

兵法に詳しい学者としてだけではなく、文化人としても活動をしてており、様々な和歌が残されています。
拠点としていた品川の館や江戸城に著名な歌人を招いて連歌会を催したと伝わっています。

また、江戸城城主となった太田道灌は、城内で兵を日々鍛え、稽古を怠ける者からは兵たちの茶代にあてる罰金を徴収していたといいます。
このことから配下や兵にも茶を習うことを奨励していたというのが分かります。

太田道灌の逸話

 

ここからは、太田道灌の逸話について3つご紹介します。

和歌に詳しくなるきっかけとされる逸話

太田道灌は歌人として活躍していたとされていますが、実は若いころは和歌に詳しくなかったとされています。
歌を熱心に勉強するようになったきっかけとされる逸話がありますので、ご紹介します。

山吹の里の伝説

太田道灌が鷹狩りでをしていた際、突然雨が降ってきたので、近くの家に立ち寄って蓑を借りようとしました。
家から出てきた少女に蓑を借りたいと申し出ると差し出されたのは一輪の山吹の花でした。

花を渡され、蓑を借りられなかった太田道灌は憤慨し、帰った後に家臣に対してこの話をしました。

話を聞いた家臣は、「『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』に載っている『醍醐天皇(だいごてんのう)』の皇子・『中務卿 兼明親王(なかつかさきょう かねあきらしんのう)』が詠んだ歌『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき』の「山吹の実の一つだになき」の箇所から、『山』は[山間の]、『吹の』が[茅葺の]、『実の一つだになき』は[蓑一つだになき]になり、[蓑一つさえない山間の貧しい家です]と意味を込めて、山吹の花を差し出したのではないでしょうか。」と答えました。

 

勉学を重ねてきた太田道灌ですが、歌の教養がなかったことから歌を知らないことを恥じ、歌道にも精進するようになった、といいます。
この少女が渡した花から、この逸話は「山吹の里の伝説」や「山吹伝説」といわれています。

山吹の里はどこ?

 

この山吹の花を渡した少女がいた家があった土地とされている場所がいくつかあります。
1つは豊島区の神田川にある面影橋の近く、2ヶ所目は新宿区の山吹町、そして3ヶ所目が埼玉県越生町です。

しかし、この3か所のうちどれかなのか、それともいずれでもない他の場所に「山吹の里」はあるのか、現在まで不明となっています。

幼少期の逸話

頭脳明晰であり、和歌にも詳しくなり教養深い人と知られるようになった太田道灌ですが、幼い頃から頭の回転が速いというのがわかる逸話がありますのでご紹介します。

幼少期の逸話①障子と屏風

 

太田道灌は幼いころから聡明でしたが、父親がその聡明さを逆に心配して
「知恵が過ぎれば偽りが多くなり、偽りが多くなれば災いを招くようになる。例えば、障子は直立しているからこそ役に立つが、曲がっていたら役に立たない」
と戒めると、太田道灌は屏風を持ち出して「屏風は直立していると倒れてしまって役に立たないが、曲っていれば役に立ちます」と言い返しました。

父親が思っていた以上に太田道灌は聡明で、頭の回転が非常に早いという事がわかる逸話です。

幼少期の逸話②不驕者又不久

 

その聡明すぎる頭脳を持つ太田道灌が将来的に傲慢になることを恐れた父親は、「驕者不久(驕れるものは久しからず)」と書いて太田道灌に渡しました。
書を見た太田道灌は、二文字書き加えて「不驕者又不久(驕らざるものも久しからず)」と全く逆の意味に変えてしまいました。

これにはさすがに父親も怒ったといいます。

まとめ

歌人として知られる彼の逸話もまた歌に関わる話や、頭の良さが分かる話でした。

そして武将としての太田道灌は主君の窮地を救う忠臣です。
しかし自分よりも武名に勝り、周囲から一目置かれる存在になった太田道灌の存在を恐れた主君から、暗殺されてしまうという悲惨な最後を迎えます。

人生の最後は主君に対して自分が救ったという気概から、父親に渡されたように「驕者不久」という結末を迎えてしまったのか、父に渡された「驕者不久」を胸に実は生きていたけれども主君からの嫉妬や周囲の人物の工作で暗殺に追い込まれてしまったのか・・・今となってはもう分かりません。

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