【徳川家康の子孫たち】実は徳川家康の曾孫が3人も将軍になってるって知ってた?

天下を統一し、江戸幕府を開いた「徳川家康」。
彼は子にも恵まれ、現在までその血脈は続いています。

子孫たちの中には江戸幕府の中で活躍した人物も多いですし、なにより将軍となった人物は全員徳川家康の子孫です。
特に曾孫世代で将軍になっている人物が多く、なんと3人も将軍職に就任しています。

なぜ曾孫が3人も将軍になったのか、その理由と人物についてご紹介します。

徳川家康の子供の年齢が幅広い!

 

最初の子と末子の年の差がスゴい!

徳川家康には実子だけでも16人の子供がいます。
それだけ多くの子がいると子供同士の年齢差も大きくなります。

一番年齢幅がある長男と末の子である五女でその差を見てみましょう。

最初の子「松平信康(まつだいらのぶやす)」が生まれたのは『桶狭間の戦い』の前年、1559年のことです。
この時はまだ徳川家康が今川義元に仕え「松平元康(まつだいらもとやす)」と名乗っていた時代です。

逆に徳川家康の末子となる五女「市姫」が生まれたのは、戦国時代の終わりともされる『大坂の陣』の7年前、1607年のことです。
この頃には徳川家康は将軍職を譲っており、徳川の天下を世に知らしめていた時期となります。

松平信康と市姫、この2人の生まれた年にはなんと50年近い大きな時間差があります。
この年齢差は兄妹というより親子、それどころか祖父と孫でもおかしくない年齢差です。

このように大きな年齢差がある兄弟構成だったことが、曾孫が3人も将軍になれた理由の一つになります。

孫と息子の年齢差は1歳差!

 

江戸幕府三代将軍となる「徳川家光(とくがわいえみつ)」は1604年生まれです。
二代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」の嫡男でもあり、徳川家康から見ると孫にあたります。
そして徳川家康の11男で最後の男子「徳川頼房(とくがわよりふさ)」が生を受けたのは1603年になります。

わずか1歳しか差のない甥と叔父は非常に親交が深かったようで、徳川家光から徳川頼房に兄弟も同然、と書かれた手紙も発見されています。

入り組んでいる徳川将軍家の系譜

徳川将軍家といっても、親子関係にあったのは4代「徳川家綱」の時代までです。
「徳川家綱」には子供がいなかったことから、養子や徳川家一門から将軍を選ぶようになった将軍家の系譜は入り組んだものになっていきます。

この入り組んだ関係性による系譜もまた、曾孫世代が3人も将軍になれた理由となります。

徳川家康との関係性

出てくる人物も多く、似た名前も多いですので、将軍になった人物と徳川家康から見た続柄をまとめましたので御覧ください。

 

徳川家光の子が二人将軍となった後、一度は徳川家継の来孫(らいそん)まで代が進んだ後、ふたたび曾孫の代まで戻り、徳川吉宗が将軍となっているというのがわかります。

それではこの図を基に、それぞれの将軍について解説していきます。

四代将軍:徳川家綱


出典:wikipedia.org

 

江戸幕府の四代将軍となった「徳川家綱(とくがわいえつな)」は、徳川家光の長男にして、徳川家康の曾孫になります。
11歳で将軍職を継承し、父、徳川家光の才能に恵まれた遺臣らと共に武断政治から文治政治へと政策の切り替えを実行していきました。

40歳で子を残さずに亡くなってしまったことから、江戸幕府の将軍職の世襲制が終焉を迎えました。

五代将軍:徳川綱吉


出典:wikipedia.org

 

五代将軍の「徳川綱吉(とくがわつなよし)」は徳川家光の四男であり、徳川家綱の5つ下の弟です。
徳川家綱が亡くなる直前に養子に迎え入れられたことで将軍に任命されました。

儒学を重んじ湯島聖堂を学問の中心地として設立するなど勉学やその普及にも取り組んでいました。

兄、徳川家綱時代には「明暦の大火(めいれきのたいか)」と呼ばれる江戸城や江戸の大半を焼失させる事件があり、その復興費用がかさんだことから幕府は財政難となっていましたが、財政状況の見直しを幕政刷新と併せて実行しています。

徳川綱吉の時代は前半は善政の「天和の治」として讃えられていますが、後半になると現在でも悪政と名高い「生類憐みの令」などにより財政状況が悪化。
さらに貨幣の改鋳も失敗したことで経済状況が混乱に陥る原因を作ったとされ、評価を下げてしまいました。

後継者となったであろう長男がいましたが幼くして亡くなってしまい、それ以降男子は生まれていませんでした。
そのため次の将軍となる人物は徳川家一門から選ばれることになります。

就任期間の短かった六・七代将軍は徳川家康の玄孫と来孫

六代将軍となった「徳川家宣(とくがわいえのぶ)」は、徳川家光の三男「徳川綱重(とくがわつなしげ)」の長男です。
徳川家光の孫にあたり、徳川家康から見ると孫の孫、『玄孫(やしゃご)』となる人物です。

先代将軍の徳川綱吉には娘婿の「徳川綱教(とくがわつなのり)」という人物がいましたが、より徳川家康の直系に近い人物として徳川家宣が選ばれ、将軍となりました。
48歳にして将軍に就任した徳川家宣ですが、それからわずか3年後に急死してしまいます。

その後は徳川家宣の子、「徳川家継(とくがわいえつぐ)」が将軍職を継ぎ七代将軍となりました。
しかし病弱だったこともあり、わずか8歳(満6歳)という幼さで亡くなってしまいました。
徳川家継が子供を残さずに早逝したことで、徳川秀忠の男系子孫による血脈で継いできた徳川将軍家の歴史はここで途絶えました。

八代将軍:徳川吉宗

 

徳川家直系の血が絶たれたことで次に重視されるようになったのが徳川家康とどれだけ近いか、という点です。
そこで八代将軍に選ばれたのが「徳川吉宗(とくがわよしむね)」です。

彼は徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた『徳川御三家』の一家『紀州徳川家』の出身です。
紀州徳川家は徳川家康の十男『徳川頼宣(とくがわよりのぶ)』を祖とした家柄で、徳川吉宗自身は紀州徳川家の五代目当主であり、徳川頼宣の孫にあたる人物です。

徳川家康の子供の孫にあたりますので、徳川家康の曾孫として3人目の将軍への就任となりました。

将軍となった徳川吉宗は、紀州藩主としてのこれまでの経験を活かした財政再建『享保の改革』をはじめます。
この改革の中で幕府財政収入の安定化・新田開発・官僚制度改革・司法制度改革が行われました。
他には江戸の町で頻発していた火事への対策として町火消しを設置や小石川養生所を創立した医療政策や洋書輸入の一部解禁も行っています。

また、幕府財政を圧迫する原因となる大奥の人員を4000人から1300人まで大幅な縮小も行っています。

しかし改革はいい面ばかりではなく、各地では百姓一揆も多発していました。
これは幕府の財源を取り戻すために年貢を増税したことによる農民の困窮化が原因でしたので、この時代も決して安定した時代とも言い切れるものではなかったということなのでしょう。

徳川吉宗は29年に渡り将軍職として政治を行った後、1745年に将軍職を息子の「徳川家重(とくがわいえしげ)」に譲ります。
しかし、実態としては大御所として徳川吉宗が采配を振るっており、1751年に亡くなるまでは将軍職としての実権を握っていました。

入り組んだ関係の将軍たち

 

強権を握っていた徳川吉宗が亡くなってからは、徳川家康の曾孫の将軍への就任はありません。
九、十代は徳川吉宗の子と孫が将軍となっています。

四代から八代までの間隔はなんと!

一口に曾孫となった将軍といっても四代・徳川家綱と八代・徳川吉宗では活躍した時代は全く違います。

徳川家綱が11歳の時に将軍職を継いだのは1651年ですが、徳川吉宗が大御所として将軍職の実権を握りながら亡くなったのは1751年のことです。
徳川家康の曾孫が将軍として力を持っていた時代はなんと100年という長期に渡る時代になります。

まとめ

同じ徳川家康の子孫と言っても兄弟でも年齢差が大きかったことから、曾孫の世代は活躍した時代に大きくズレが生じています。
そのため一度は徳川家康の玄孫や来孫が将軍に就任しながらも、再び曾孫の徳川吉宗という人物が将軍となっています。

ちなみに、徳川家綱が4代将軍として就任した頃、徳川吉宗の祖父であり徳川家康の息子の「徳川頼宣(とくがわよりのぶ)」はまだ当主として紀州藩を治めていました。
曾孫が主君で息子が臣下、という関係もなかなか珍しい状況だったのではないでしょうか。

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