「火中の栗を拾う」はフランスから伝わったことわざ!・・・だけど元の意味とは異なるらしい?

「火中の栗を拾う」はリスクを冒してでも危険性の高いことに挑戦することです。
日本では他人のために自分を犠牲にするという意味で使われることの多い言葉です。
しかし、もともとフランスから伝わったことわざである「火中の栗を拾う」は、現地ではむしろ他人にいいように使われるなという教訓が詰まった言葉となっています。

そこでここでは、「火中の栗を拾う」がどういう意味を持っていて、どのような経緯から生まれた言葉なのかを、類義語とともにご紹介します!

「火中の栗を拾う」の意味と類義語

まずは日本語での「火中の栗を拾う」の意味や類義語といった基礎知識をまとめました。

「火中の栗を拾う」の意味

「火中の栗を拾う」は、危険性の高いことにあえて挑むことを意味しており、他人のために危険を冒して何かをすることを指す際に使われます。
また、自分にはなんの利益も無いことを他人のためにリスクを負ってまで行動する際にも用いられます。

「火中の栗を拾う」の類義語

「火中の栗を拾う」にはどのような類義語としては、「虎穴に入る」「一髪千鈞を引く」「危ない橋を渡る」などが似たような意味となります。
どれも危険性が高いのにあえて挑むことを意味する言葉があります。
いずれも戒めの意味で用いられることが多いです。

フランスのことわざ「火中の栗を拾う」

もともと「火中の栗を拾う」はフランスのことわざとして生まれた言葉となっています。
では、なぜそもそも「火中の栗を拾う」というように言われるようになったのでしょうか?

「火中の栗を拾う」のいわれ

「火中の栗を拾う」はジャン・ド・ラ・フォンテーヌという詩人が書いた寓話詩から生まれたフランスのことわざです。

17世紀に活躍したフォンテーヌは、イソップ物語をもとにした詩を多く作りました。
「全ての道はローマに通ず」という名言を残したのもこの人物です。

そのフォンティーヌの詩作のひとつ『猿と猫』という、お人好しの猫がずる賢い猿に騙されて火の中の栗を拾い、火傷を負ってしまったという話があります。
この寓話詩は、危険を冒して栗を拾ったにもかかわらず、栗は猿に食べられてしまい猫は損をしただけだったという結末になっています。

「火中の栗を拾う」という言葉はこの『猿と猫』という詩から生まれたとされています。

日本とは意味が異なる?!

「火中の栗を拾う」は日本では他人のために危険を冒して何かをすることを指す際に使う言葉とされています。
しかしフォンテーヌの寓話詩の中では、お人よしだった故に、猫は何にもありつけずヒドい目にだけあい、猿だけがおいしい思いをするという内容となっています。
寓話なので教訓が含まれていますが、この『猿と猫』では騙されていいように利用されるな、という教訓のあるとされます。

そこからフランスでは、「火中の栗を拾う」は騙されて他人のために危険を伴った行動をする騙されて悪事や危険な仕事でこき使われるという意味で用いられる言葉となっています。

他人のために、という日本での用い方は、「滅私奉公」など日本人の美徳により生まれた解釈ともされています。

イソップ物語に由来がある言葉

「火中の栗を拾う」の他にも、実はイソップ物語に由来することわざがあるため、ここからはそれらも併せてご紹介します。

酸っぱい葡萄

「酸っぱい葡萄」は負け惜しみを表す例えです。

高いところにある葡萄を採ることができなかった狐が、「あの葡萄は酸っぱくて美味しくないに決まっている」と自己正当化した『狐と葡萄』という物語から生まれました。
上手くいかなかったことや高望みしたものを、自分のせいにするのではなく、対象を貶めたり価値がないと主張したりすることで心の安定を図ろうとする心理があります。
この心の作用を如実に表しているのが『狐と葡萄』の物語であり、「酸っぱい葡萄」という言葉なのです。

猫の首に鈴を付ける

「猫の首に鈴を付ける」はいくら素晴らしい案でも、実行できなければ意味がないことを表す例えです。

これはイソップ物語のひとつ『ネズミの相談』という物語から生まれた言葉です。
いつも猫にひどい目にあわされていたネズミが集まり、どう対処したらいいかを話し合っていました。
その中で、ある1匹が「猫が来たらすぐわかるように猫の首に鈴を付けよう!」と提案しました。
この案にみんながそれはいい!となったのですが、では誰が猫に鈴を付けるのか、という話になると誰もその役を買って出ませんした。
確かに猫に鈴を付けて近くに来たら分かるようにしようというのは素晴らしい案です。
しかし、それを実行させるのは現実的ではありません。

そこから、机上の空論という意味で「猫の首に鈴を付ける」が使われるようになりました。

獅子の分け前

「獅子の分け前」は2つの意味で使われる言葉です。
1つは強い者が弱い者を働かせて得た利益を独り占めすることの例えとなっています。
もうひとつはより近しい人の失敗から見て学び、知恵を学んだり処世術を得ることの例えです。

ある時、獅子と狐と驢馬の3匹が狩りに出かけました。
無事にたくさんの獲物を手に入れたので、ロバが均等に三等分しました。
その様子を見た獅子は激高し驢馬を食べてしまいました。

残った狐に獅子が再度分配を命じると、狐はほとんど獅子に渡し、自分にはわずかな分だけをまわしました。
この分け方の根拠を獅子が聞くと、「驢馬がその身をもってこの分け方を教えてくれました」と狐は返しました。

獅子が驢馬の分け方に激高することで、ほとんどの利益を持っていくという経緯から前者の意味が、狐が驢馬の身の不幸から学んだという意味が後者の他山の石的な意味合いが発生しました。

まとめ

「火中の栗を拾う」は危険なことを顧みずに挑戦することなどを指す言葉ですが、日本では自己犠牲や玉砕を含めた意味で使われることが多いです。
しかし、このことわざが生まれたフランスでは、むしろ他人のために自分を犠牲にすると損をみるぞという教えとなっています。
元となったイソップ物語から異なる解釈が生まれたのは、それぞれのお国柄があるのかもしれませんね。

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