行雲流水は、ありのままを受け入れることを意味する言葉です。
特に自然の成り行きに任せることを指す言葉でもあります。
そこでここでは、「行雲流水」がどのような言葉なのかを解説します。
また、どのような経緯で生まれた言葉なのかもご紹介しまsう。
目次
「行雲流水」とは
まずは、「行雲流水」がどのような意味を持つのか見ていきましょう。
「行雲流水」の意味
行雲流水とは、自然の成り行きに任せることの例えです。
物事に執着せず自然体でいることの例えとしても使われます。
また、自由に移り変わって淀みがないことの例えとしても用いられます。
「行雲」は、空を行く雲のことを、「流水」は流れる水のことを指しています。
なお、漢字を逆にして流水行雲と表現したりもします。
文章の書き方の説明として生まれた言葉
行雲流水は、中国のある人物が遺した言葉から生まれた四字熟語です。
語源は中国で11世紀後半に活躍した蘇軾(そしょく)という政治家にして書の達人の言葉にあります。
蘇軾は、「よい文章を書くには空を行く雲のように川を流れる水のように自然に任せて筆を走らせることが大切」だと伝えらとされます。
彼は「物事に執着したり型に縛られていたりすると人の心を打つ素晴らしい文章は生まれない」と説いていたのだとか。
この蘇軾の文章の書き方における教えの一節から「行雲流水」という言葉は生まれました。
「行雲流水」の用いられ方
分の書き方の教えから生まれた「行雲流水」ですが、現在は違う意味合いで使われる傾向があります。
「Let it be」の意味でも使われる
行雲流水は自然に任せることの例えとして生まれました。
しかし、励ましの意味で使用されることが多いです。
特に英語の「Let it be」つまり「なるようになるさ」の意味合いで用いられます。
気負いしている人に対して、気を楽にしてみたらいいよと伝える言葉として使えるという事です。
相手がこの言葉を知らないと、「何ですかその言葉?」と逆に身構えられるかもしれませんが。
修行僧を指す言葉としても使われる
行雲流水は、修行僧を意味する言葉としても用いられます。
特に諸国を修行して回る禅僧の事を指します。
この行脚を行う禅僧の事を「雲水」という事もありますが、これは「行雲流水」の略という事になります。
「行雲流水」の類義語
行雲流水は同じような意味を持つ言葉もいくつかあります。
ここからは行雲流水の類義語を見ていきましょう。
天衣無縫
天衣無縫とは、自然でありのままの姿をあらわす言葉です。
自由気ままに振舞いながらも、完璧に美しく見えることの例えです。
「天真爛漫」も同じような意味ですが、天真爛漫の場合は無邪気さをあらわす熟語となっています。
雲煙過眼
雲煙過眼とは、物事に長く執着しないことをあらわす言葉です。
雲や煙が過ぎてすぐに消えてしまうように、物事を心に留めないことをあらわす言葉となります。
そこから過去を引きずらない人なども指すようになりました。
また、過去を考える必要がないというニュアンスでも使用されます。
虚心坦懐
虚心坦懐とは、先入観を持たずに物事に取り込む姿勢をあらわした言葉です。
物事の概念に囚われず、広く平たい心で望む態度などをあらわします。
まとめ
行雲流水は、自然の流れに任せることを表現した言葉となります。
特に物事に執着せず、自由に任せることを言ったりします。
似たような言葉には、「天衣無縫」「雲煙過眼」「虚心坦懐」などがあげられます。