「究竟」という言葉は「くきょう」と読まれることが多いです。
しかし、他にも「くっきょう」や「きゅうきょう」とも読みます。
実は「究竟」はその読みによって意味が変化する言葉なのです。
そこでここでは、この「究竟」という言葉について見ていきましょう。
目次
読みによって変わる「究竟」の意味
「究竟」は、読みによって指しあらわすものが大きく変わります。
ここでは、それぞれの読みごとの意味を見ていきましょう。
「くきょう」と読んだ場合
「くきょう」は、仏教用語で究極の到達点のことを指します。
物事の最後に行きつくところをあらわす表現となります。
物事を極めていて、とても優れていることをあらわしています
「くっきょう」と読んだ場合
「くっきょう」は、仏教用語から派生した言葉となります。
極めて力が強いことや優れていることを指す表現です。
仏教以外であっても、究極の境地をあらわす際に用いられます。
特に武道で武勇に長けていることの表現としても使用されます。
なお、この読みはとても都合がいいことという意味合いで使用されることもあります。
「きゅうきょう」と読んだ場合
「きゅうきょう」は、物事を極めたことを指す言葉となります。
他の2つは状態を指すのに対して、こちらはその状態に至るまでの状況や至った状況を指すさいに用いられることがあります。
他にも、つまるところや結局のところといった、最終的に至った結果という意味で使用されることもあります。
読みによって異なる「究竟」の類義語
「究竟」は、読みによって意味が変わるため、類義語もそれぞれ異なります。
「くきょう」の類義語
「くきょう」は、最高の状態であることを指しています。
その類義語は、「無上」となります。
「無上」とは文字通り、この上ないことをあらわす語句です。
「くっきょう」の類義語
極めて力が強いことをあらわす「くっきょう」の類義語は、同音異義語にあたる「屈強」などが相当します。
体つきがよく非常に丈夫な体をしていることや筋骨隆々であることをあらわしている言葉です。
「きゅうきょう」の類義語
「きゅうきょう」の意味には究極という意味合いがあるため、類義語のひとつに「究極」があると言って差し支えないでしょう。
そして、究極という意味やつまるところという2つの意味が被っている言葉として「畢竟」があります。
この「畢竟」も仏教用語から来ており、「畢」「竟」ともに終わりをあらわしています。
この「畢竟」は、サンスクリット語の「atyanta」に漢字を当てたものだとされています。
鹿苑寺金閣にある「究竟頂」
「究竟」という言葉は寺院などの施設にも使用されています。
その一例として、「究竟」が見られる鹿苑寺金閣があります。
鹿苑寺金閣とは
鹿苑寺金閣とは、京都市北区金閣寺町にある寺院のことです。
建物の内外に金箔が貼られた舎利殿は「金閣寺」と呼ばれるのが一般的です。
金閣寺の舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築とされ、国の重要文化財に登録されています。
1950年に放火で焼失してしまいましたが、1955年に再建、1994年にはユネスコの世界遺産に登録されており、現在に至ります。
「究竟頂」は鹿苑寺金閣の三層、最上階のこと
鹿苑寺金閣の三層、最上階は「究竟頂」と呼ばれています。
禅宗仏殿造りとなっている「究竟頂」は仏舎利(お釈迦様の遺骨)を安置する空間となっています。
まとめ
「究竟」は読み方によって意味合いが異なる語句となっています。
「くきょう」と読めば、究極の到達点を指し、「くっきょう」と読めば、極めて力や能力が優れていることを意味し、「きゅうきょう」と読めば、物事を極めたことをあらわしています。
それぞれ読み方で意味するものが異なるので、もちろんそれぞれ類義語だって変わってきますよ。