「馬の耳に念仏」とはどんな意味のことわざ?「馬耳東風」とは同じ意味?

「馬の耳に念仏」とは、どれほどありがたい言葉でも、聞く耳を持たない人にとっては無駄であることの例えです。
このことわざに似た四字熟語としては「馬耳東風」などがあります。

ここでは、この「馬の耳に念仏」という言葉について、その意味や用い方、由来や類義語について解説します。

「馬の耳に念仏」とは

 

まずは「馬の耳に念仏」という言葉の意味や用い方を見ていきましょう。

「馬の耳に念仏」の意味

「馬の耳に念仏」とは、馬にありがたい念仏を聞かせても無駄であることを意味することわざです。

転じて、いくら良い意見を言い聞かせても効き目がないことの例えとして用いられます。
また、何を言ってもまるで理解できないことやまともに耳を傾けないことを例える際にも使われます。

何を言っても効果がない、ということを指すことわざです。
特に本人に聞く気がなければ、いくら道理を説いても無駄であることを強調していると言えます。

「馬の耳に念仏」の用い方・例文

「馬の耳に念仏」は、何を言っても無駄な状況で用います。
多くの場合、その対象となるのは改善の兆しの見られない人です。

「彼にしっかりするように耳にタコができるほど注意を重ねても馬の耳に念仏らしく、今日も朝からどこかへ遊びに行ってしまった」
というこの例文では、しつこく注意をしても彼は生活態度を改めようとしない、ということを強調する表現となっています。

「馬の耳に念仏」の由来

 

ここからは「馬の耳に念仏」がどのようにして生まれた言葉なのかを見ていきましょう。

馬には念仏のありがたさが伝わらないことから

「馬の耳に念仏」は、文字通り馬と念仏つまり「南無阿弥陀仏」と唱えることから来た言葉です。

馬に念仏を聞かせてあげたところで、そのありがたみは理解してもらえません。
いくら念仏を説いても馬が相手だと伝わりません。

この状況を揶揄する表現として、話の通じない人に使用されるようになりました。

「馬耳東風」と意味は同じ

四字熟語「馬耳東風」をことわざとして表現したのが「馬の耳に念仏」となります。
先に「馬耳東風」という表現が中国にあり、「馬の耳に念仏」は日本で意訳された表現となります。

「馬耳東風」は、中国の詩人である李白の詩が出典と考えられています。
「王十二の『寒夜に独酌して懐にあり』に答う」という詩の中に「東風は馬耳を射るがごとき」というくだりがあります。
良い詩を俗物は認めようとしないことに憤っている李白の感情が詠まれているこの言葉が「馬耳東風」の由来とされています。

「馬の耳に念仏」の類義語

 

最後に「馬の耳に念仏」の類義語を見てみましょう。
その類義語としては、「犬に論語」「豚に真珠」「猫に小判」のように動物が文言に含まれる語句が多くなっています。

犬に論語

「犬に論語」とは、道理の通じない者には何を言っても無駄であることを意味します。
犬に論語について説明したところで、理解してくれるはずもありません。

その様子から、どのような良い教えであっても、その教えが理解できない者には何の役にも立たない、という意味合いで使用されます。

豚に真珠

「豚に真珠」とは、価値のわからない者に価値のある物品を与えて意味がないとこをあらわしています。
豚に真珠を与えたところで、その価値を理解することはありません。
転じて、価値がわからない者には何を与えても無駄であるという表現として広まりました。

この言葉は、もともとキリスト教に伝わる、キリストの言葉から来ています。

猫に小判

「猫に小判」とは、小判のような貴重なものを価値のわからない人に与えても何の役にも立たないことを指しています。
猫に小判を与えても、使用方法はおろか価値すら分かってもらえない、そんなたとえから生まれた言葉となっています。

暖簾に腕押し

「暖簾に腕押し」とは、何をしても手応えがなく張り合いがないことの例えです。

暖簾は宙でぷらんぷらんとたなびいているので、押しても手応えも張り合いもなく、抵抗もありません。
その様子から生まれたのが「暖簾に腕押し」という表現です。

まとめ

「馬の耳に念仏」は、ありがたい言葉を馬にいくら聞かせたところで理解してくれることはない事をたとえとして成立したことわざです。
転じて、聞く耳を持たない人間に対して、皮肉や批判の意を込めて用いられる表現とされます。

その類義語としては、「犬に論語」「豚に真珠」「猫に小判」のような「動物+貴重な存在」という組み合わせの言葉が多くなっています。

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