「門前の小僧習わぬ経を読む」とはどんな意味のことわざ?またその類義語や対義語は?

小さな頃から見聞きした物事は新たに学ばなくとも覚えているという例えとなる「門前の小僧習わぬ経を読む」。
このことわざは、お寺の近くに住む子供の様子から生まれた言葉です。

ここでは、この「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉について、その意味や由来、類義語や対義語について見ていきましょう。

「門前の小僧習わぬ経を読む」とは

 

まずは「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉の意味や他の表現について見ていきましょう。

「門前の小僧習わぬ経を読む」の意味

「門前の小僧習わぬ経を読む」とは、幼い頃に身近で見聞きしていたことは、覚えようとせずとも身についているということの例えです。
また、常に見聞きしていれば、知らず知らず学び取るようになるという意味でも使用されます。

環境が人に大きな影響を与えることを指した言葉のひとつで、人は自分の置かれた環境によって無意識に影響を受けることをあらわしています。

「門前の小僧」だけでも意味は同じ!

「門前の小僧習わぬ経を読む」は、前半の「門前の小僧」だけで表現されることもあります。
この場合も、門の前にいる子供を指すのではなく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と同じ意味となります。

言葉の前半だけに略した表現ということになりますね。

「門前の小僧習わぬ経を読む」の成り立ち

 

ここからは、「門前の小僧習わぬ経を読む」がどのようにして生まれた言葉なのかを見ていきましょう。

お寺の近くに住んでいる子供の様子から

「門前の小僧習わぬ経を読む」は、寺院の近所に暮らす子供の姿から来たとされています。

寺院では、毎日同じ時間に読経が行われます。
その声は、今よりも騒音の少ない時代ならより遠くまで聞こえていた事でしょう。
となれば、寺院の近所に住んでいる子達は毎日耳にします。
そうするとお経の意味は知らずとも真似をしたりすることでお経自体を覚えてしまうことも。

「門前の小僧習わぬ経を読む」は、そんな寺院の近くに住んでいた子どもたちの日常だっただろう風景から生まれた言葉とされているのです。

「門前の小僧習わぬ経を読む」の類義語

 

ここからは「門前の小僧習わぬ経を読む」の類義語を見てみましょう。
その類義語としては「勧学院の雀は蒙求を囀る」「鄭家の奴は詩をうたう」などがあげられます。

勧学院の雀は蒙求を囀る

「勧学院の雀は蒙求を囀る」とは、見慣れ聞き慣れていることは自然に覚えるという意味です。
学生が「蒙求」を読むのを雀が聞き覚えてさえずるという描写から来ています。

「勧学院」とは、平安時代に藤原氏出身の学生のために儲けられた教育施設、大学別曹のことです。
「蒙求」は、伝統的な中国の教科書のことで、平安時代以来は日本でも貴族の子弟が勉強に使用してきました。

鄭家の奴は詩をうたう

「鄭家の奴は詩をうたう」とは、普段見聞きすることは自然に覚えることことを指します。
「鄭家」とは、中国後漢の学者である鄭玄のことです。

鄭玄の雇い人は、習いもしないのに詩経を読んでいたとされます。
これは鄭玄が普段から詩経を読んでいた影響を受けたためだとされており、その様子から生まれた言葉となります。

「門前の小僧習わぬ経を読む」の対義語

 

最後に「門前の小僧習わぬ経を読む」の対義語も見てみましょう。
類語語は、描写として対となる「習わぬ経は読めぬ」です。

習わぬ経は読めぬ

「習わぬ経は読めぬ」とは、素養のないことは実際にやろうとしても簡単にできるものではないという意味の言葉です。

習っていないことをやれと言われてもそうそうできるものではありません。
読んだことのないお経を突然読めと言われた所で、なんと読むのかもわからない箇所がある上に内容の理解など到底できません。
このような無理難題な状況から生まれた言葉となっています。

まとめ

「門前の小僧習わぬ経を読む」は、小さな頃から見聞きして慣れたものは覚えずとも自然にできることを意味します。
環境がその人に与える影響の大きさについて説いたことわざとなっています。

類義語としては「勧学院の雀は蒙求を囀る」「鄭家の奴は詩をうたう」などがあげられます。

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