幸せと不幸というものは、縄のように絡み合っていることをあらわす熟語となる「禍福は糾える縄の如し」。
この言葉は、中国の歴史書の一節から来た言葉とされます。
しかし、少し難しい漢字が並んでいてわからいにくい言葉ですよね。
そこでここでは「禍福は糾える縄の如し」という言葉について、その意味や読み、由来に類義語について解説します。
目次
「禍福は糾える縄の如し」とは
まずは、「禍福は糾える縄の如し」という言葉について見ていきましょう。
「禍福は糾える縄の如し」の意味
「禍福は糾える縄の如し」とは、この世の幸不幸は縄を撚り合わせたように表裏一体であるという意味です。
「禍福」が不運と幸運、成功と失敗、災いと幸いのこと。
「糾える」は縄などが撚り合わさった状態や絡ませた状態です。
つまり、幸せや不幸というものは2本の紐を撚り合わせるように交互に絡み合っているという状況を指しています。
良いことや悪いことは交互にやってくるものなので、一喜一憂しても仕方ないという意味合いで使用されることもあります。
禍福の読みは「かふく」、糾えるの読みは「あざなえる」
「禍福は糾える縄の如し」には、難しい漢字が並んでいます。
禍福は「かふく」と読みます。
禍は、単独なら「わざわい」とも読みます。
「糾える」は「あざなえる」と読みます。
どちらも難読ですが、特に「糾える」は「禍福は糾える縄の如し」の中でしか見ない・見たことがないという人もいるかもしれません。
座右の銘にもされる「禍福は糾える縄の如し」
「禍福は糾える縄の如し」は、ちょっとやそっとのことで心を乱すべきではないという戒めが込められた意味もあります。
そのため、座右の銘として挙げられることもあります。
良いこともあれば悪いこともあるのが人生なので、浮かれたり落ち込んだりすること無くどっしり構える人生訓として用いられているということですね。
「禍福は糾える縄の如し」の由来
「禍福は糾える縄の如し」はどのようにして生まれた言葉なのか、その由来について見ていきましょう。
「史記‐南越伝」の一節が原形
「禍福は糾える縄の如し」は、古代中国にまとめられた歴史書『史記-南越伝』に登場する話を出典としているとされます。
その中にある「因禍為福、成敗之転、譬若糾纆」という一文が原型とされます。
「禍によりて福となす、成敗の転ずること、譬れば糾える纆の如し」と書き下すことができ、「不運や災難が原因となって幸運や吉事となることがある。成功と失敗が転じていくのは縄を結っていくようなものだ」といったことをあらわす文となっています。
「禍福は糾える縄の如し」の類義語
最後に「禍福は糾える縄の如し」の類義語を見てみましょう。
類義語としては、「人間万事塞翁が馬」「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」などがあげられます。
人間万事塞翁が馬
「人間万事塞翁が馬」とは人生において一見不運に思えることが幸運に繋がったり、またその逆だったりするのでどんな結果を呼ぶか分からないということを例えた言葉です。
そのため、1つの事を見て安易に喜んだり悲しんだりと一喜一憂してはいけない、という教訓的な意味合いでも用いられます。
この言葉は、古代中国でまとめられた思想書『淮南子-人間訓』に登場する話から来ています。
その昔、中国の北端の国境近くに占いが得意な老人が住んでいました。
ところがある日、彼が大切に飼っていた馬が逃げ出してしまいました。
それを聞いた、老人の親しい友人や知人はみんな同情しました。
しかし、老人は「これは幸運が訪れる印だよ」と言いました。
そして、その言葉通り逃げた馬は立派な馬を連れて帰ってきたのです。
そこで、みんなが祝福すると今度は「これは不運の兆しだ」と言いました。
その後、しばらくすると彼の息子が老人の馬が連れてきた馬から落ちて、足の骨を折ってしまったのです。
またみんなが同情すると彼は「これは幸運の前触れだ」と続けました。
なんとこの後、戦争が起きたのですが、老人の息子は怪我を負っていたおかげで戦争に行かずに済んだのでした。
吉事が起きたと思ったら悲劇が、悲劇が起きたと思ったら喜ばしいことが起きたというこの話から「人間万事塞翁が馬」という言葉は生まれました。
「塞翁が馬」とも表現されるこの言葉も、座右の銘としても心に留めている人が多い言葉となっています。
沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり
「禍沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」とは、長い人生のうちには悪い時もあれば良い時もあることの例えとなる言葉です。
悪いことばかりが続くものではない、という意味合いで使用される傾向にあります。
逆に良いことばかりが続くものではない、という戒めとしても使用されることもあります。
人生は幸不幸が順繰り巡ってくるものであるということを指す言葉となります。
まとめ
「禍福は糾える縄の如し」は、幸不幸が縄のように絡み合っており、それぞれが巡ってくることを言った言葉です。
だからこそ、物事にいちいち一喜一憂すべきではないという意味で使用されることもあります。
この言葉は、類義語にあたる「人間万事塞翁が馬」と同じく座右の銘とあげられることのある言葉となっています。