
人物や物事は外見ではなく、実態が伴ってこそであることを説いた言葉「山高きが故に貴からず」。
名よりも実が重要である、見目ではなく中身が大事といった意味合いでも使用されます。
ここでは、この「山高きが故に貴からず」についてその意味や成り立ち、類義語について解説します。
目次
「山高きが故に貴からず」とは

まずは「山高きが故に貴からず」の意味を見てみましょう。
「山高きが故に貴からず」の意味
「山高きが故に貴からず」とは、見た目がたとえ良くても中身が伴ってないのであれば意味がないことをあらわしています。
また、内容こそが重要であるといった意味合いで用いられることもあります。
外見は良くても知恵がないのでは台無しだという事をあらわしているという事になります。
「山高きが故に貴からず」を現代風の言葉に直訳すると、山は高いから素晴らしい存在なのではない、となります。
読みは「とうとからず」ではなく「たっとからず」
「山高きが故に貴からず」の読みは「やまたかきがゆえにたっとからず」となります。
「貴からず」の読みが「とうとからず」ではないという点に注意が必要ですね。
「たっとい」という読みは、貴いの古い読みに当たる「たふとし」の発音が変化したものです。
「山高きが故に貴からず」の成り立ち

ここからは「山高きが故に貴からず」の成り立ちについて見ていきましょう。
由来は平安時代の教科書から
「山高きが故に貴からず」は、平安時代にまとめられたともされる『実語教』という書から来たことわざです。
この「実語教」というのは、四書五経にある格言などをまとめて子供にも分かりやすく読みやすく編纂したもので、平安時代から江戸時代までにわたり教科書的役割を果たしていました。
その教科書には「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す」とあります。
「山は高いから素晴らしい存在なのではない、そこに青々とした木々が生えているからこそ貴いのだ」という内容となります。
続きは「人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴しと為す」
「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す」には、「人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴しと為す」という続きもあります。
これらの言葉には「人も体が大きいだけで立派だとは言えず、知恵を持つからこそ貴い」という意味が込められています。
もともとは、山の偉大さを人に例えたことから来た言葉だったのです。
「山高きが故に貴からず」の類義語

最後に「山高きが故に貴からず」の類義語を見てみましょう。
ウドの大木
「ウドの大木」は、図体ばかり大きくて役立たずであることを意味します。
植物のウドは、若い茎であれば柔らかく食用とされます。
ところが、成長すると食べられないほど固くなってしまいます。
しかも大きく成長してしまったウドは、木のようにも見えますが薪や建材としては使用できません。
それらのことから、しっかりした外見こそしていますが役に立たないという意味が生じました。
白豆腐の拍子木
「白豆腐の拍子木」は、見かけが立派でも役に立たないものの例えとなります。
豆腐で拍子木を模したものを作っても、叩いたら当然すぐに壊れてしまいます。
拍子木は白木から作られますので、見た目こそそっくりですが変わりにはなりえないという事になります。
見かけこそいいものの、実際の役には立たないという事をあらわす言葉という事になります。
まとめ
「山高きが故に貴からず」は、見た目だけで中身が伴っていないのでは意味がない事をあらわしています。
もともとは教科書にある言葉だったということもあり、教えや戒めに近い言葉といえます。
また、人物や物事は見かけだけで判断してはいけないという意味だったり、内容こそが重要という意味で用いられることもあります。