人に不快感や嫌悪感を与える言葉、で言われたくないだろう「嫌味」と「皮肉」。
どちらもネガティブな印象を抱かれる言葉です。
では、両者にはどのような違いがあるのでしょうか。
ここでは、「嫌味」と「皮肉」の違いについて解説します。
目次
「嫌味」とは
まずは「嫌味」がどのような言葉なのかを見てみましょう。
「嫌味」の意味
「嫌味」とは、人に不快感を与える言葉であったり態度、対応をのことです。
相手に対して直接的な不快感を与える言動を指します。
それは、意図的に行われるもののみが該当します。
相手の気分を害そうという意識がない発言や行動によるものは、嫌味とはなりません。
「嫌味」となる言動
「嫌味」は、人に対して直接的な不快感を与える言葉や態度に対して使用します。
人のプライベートや交友関係に対して、直接自分は関わるものではないのに口出しをする行為であったり、価値観が異なることを槍玉に挙げる。
他人の尊厳に関わる事を傷つけるといった言葉による嫌がらせとも受け止められる内容が「嫌味」となります。
一例としては、「なんであんな人と友達をしているの?」だったり「お前なんかにできるわけない」といった言葉は十分嫌味となります。
「皮肉」とは
次に「皮肉」がどのような言葉なのかを見てみましょう。
「皮肉」の意味
「皮肉」は、間接的に人を批難する言動のことです。
露骨にではなく、欠点や問題点を遠回しに伝えます。
そのため、人によっては皮肉が込められた言葉の意図を理解できないこともあるかもしれません。
「皮肉」となる言動
「皮肉」は、人に対して遠回しに言う悪口です。
一見持ち上げておいて、実はけなしているといった発言だったりします。
「この一番忙しい時期に3日も休みもらったんだ!それはいいね、ゆっくりしてきてね」だったり「そのコーディネート、流行に流されてなくていい感じだね」とった言葉が皮肉の一例となります。
「皮肉」の語源
ここからは「皮肉」の成り立ちについて見ていきましょう。
併せて「嫌味」の成り立ちについてもまとめます。
原型は「皮肉骨髄」
「皮肉」の原型は、仏教用語「皮肉骨髄」にあります。
この「皮肉骨髄」は、中国禅宗初祖『達磨大師』が4人の弟子を評価したとされる時に用いた言葉から来ています。
達磨大師は、自らの弟子4人を「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と評価を下しました。
まるで弟子たちを絶賛しているようにも見えますが、実際のところは異なります。
皮もしくは肉を得たりと評された弟子は、批難されているとも受け止められます。
なぜなら、皮や肉は表面もしくは表面に近しい目に見える場所だからです。
つまり本質を理解していないということになります。
逆に、「我が髄を得たり」と評価を受けた弟子は後継者にふさわしいと言われているのに等しいでしょう。
髄があるのは骨の内側。すなわち一番中の中ということになりますから、全て理解しているということになります。
「皮肉」は訳語として生まれた
皮肉という言葉は、比較的新しく生まれた言葉ともされます。
哲学の世界で用いられる「アイロニー」という言葉を訳す際に、達磨大師の逸話から引用されて生まれたとされています。
つまり、明治時代以降の言葉となるようです。
文字通りの言葉から来ている「嫌味」
「嫌味」は、嫌がることをあらわす動詞の「いやむ」の連用形から来た言葉です。
ただし、漢字表記は「嫌み」ではなく「厭み」が正しいともされます。
また、「嫌み」という表記も正しいとされますが、時に「嫌味」という表記だと間違いとされることもあるようです。
まとめ
ネガティブな表現となる「嫌味」と「皮肉」。
似たような表現ですが、ニュアンスに違いがあります。
「嫌味」は、直接的に相手を不快にさせる言動。
対して「皮肉」は、間接的に相手を批判するニュアンスがあるのです。