伊達政宗の兜がカッコいい!あの三日月にはどんな意味が込められているの?本物はどこで見られる?

戦国武将の兜ってカッコいいですよね!数多くある中でも特に、伊達政宗(だてまさむね)の金色に輝く三日月の前立(まえだて)の兜がカッコいいですよね!

独眼龍」伊達政宗という異名と共に有名な三日月が輝く兜ですが、なぜ三日月なのでしょうか?単にカッコよさだけなら異名のように龍の姿でもよかったはずです。ですが伊達政宗の兜のデザインにもしっかり意味が込められていたそうです。

そこで今回は伊達政宗の兜のデザインの由来や、現在どこで見られるかをご紹介します!

伊達政宗の兜の特徴そして三日月に込められた意味

派手に見える?実はシンプル

輝く金色の三日月の兜、これが伊達政宗の兜のイメージですよね。この大きな三日月の前立、これは「弦月(げんづき)形」とも呼ばれています。

黒い兜に金色の三日月という、夜空を照らす三日月のようなその洗練されたデザインを持つ兜は伊達政宗の大きい特徴の一つといわれるほど有名です!ただ、この兜は伊達政宗が派手好き、伊達男と呼ばれているのもあってか派手なものと思われがちですが、前立が目立つだけで実はこの兜、シンプルで実用的なデザインなんです!!

シンプルで実用的!六十二間筋兜

伊達政宗の兜の本体部分は「六十二間筋兜(ろくじゅうにけんすじかぶと)」という種類に属しています。細長い薄い鉄板を縦に重ね並べ、継ぎ目を筋状に加工し漆をその上から塗ることで側頭部から頭頂部までの頭部を守る「兜鉢(かぶとばち)」と呼ばれる部分を強度を高めて作成した兜が「筋兜」です。

その細長い鉄板を62枚重ねて作成されたものを、伊達政宗の兜のように「六十二間筋兜」と呼んでいるのです。この62枚の鉄板でできた兜は伊達政宗が活躍し、鉄砲が普及した戦国時代の終わりには必要な堅牢さだったようです。

この六十二間筋兜に余分な飾りつけは一切せず、三日月の前立を取り付けただけなのが伊達政宗の兜です。伊達政宗といったら「伊達男」の語源ともいわれていますから派手好きのイメージでしたが、意外とシンプルな実用性を重視した人物でもあったようです。

前立が三日月の理由

なぜ伊達政宗の兜は「三日月」の前立なのでしょうか。戦国武将はそれこそ様々なモチーフで兜を作成しています。月をモチーフにした兜は確かに多いですが、実際のデザインとしては満月や半月が多いです。

それらを選ばずなぜ三日月の兜にしたのでしょうか。実はこの前立を考案したのは伊達政宗本人ではありません!父親の「伊達輝宗(だててるむね)」とされています。では父親である伊達輝宗はなぜ三日月の前立にしたのでしょう。そこには深い理由がありました。

父、伊達輝宗の想い

この兜は単体ではなく、旗印と対として考案されたといいます。旗印とは戦場で大将がここにいるというのを自分の所在をあらわす旗です。そのため、戦場で一緒にある兜と旗印と対にして考えたというのです。

そして父・伊達輝宗が用意した伊達政宗の旗印は「白地に赤丸」。日本国旗に似たデザインです。この旗印の赤丸も国旗同様、太陽をあらわしています。ですがこの旗の場合、ただの太陽ではありません。太陽というには仏教では「金剛界(こんごうかい)」を象徴したものです。

その金剛界とは、大日如来といった仏が煩悩を打ち破る知恵の世界といわれています。その旗印の太陽と対となっているのが兜の月です。月もまた「胎蔵界(たいぞうかい)」を仏教では象徴しています。「胎蔵界」とは大日如来の慈悲が人の仏性を育て,仏とする理法の世界とされています。

この対した旗印と兜が常に戦場で一緒にあることで、嫡男の伊達政宗に仏の加護を願うという父、伊達輝宗の愛情を感じますね!!

なぜ三日月なのか?

では、なぜ満月ではなく三日月なのでしょうか。それは一説に太陽も満月も意匠化すると円になり、太陽か月か区別が付かなくなってしまうためとされています。

そこで兜の前立は満月ではなく三日月がとられたと諸説ある中の一つでは考えられています。また、この三日月には更に実用性の高い工夫も込められているといいます。三日月の前立は右が短い左右非対称となっています。

これは右手で刀を振りかぶった時に邪魔にならないように右側を短くしたといわれています。ただ周りに自分の存在を知らしめるために目立つ大きな三日月にしただけではなく、実用性も込める、というのが戦国武将としての伊達政宗の考えの深さを感じますね!

三日月の兜だけではない?!大日如来前立の兜

伊達政宗の兜といえば三日月前立と紹介してきましたが、実は他にも伊達政宗の兜とされているデザインの兜があります。それが岩手県の「水沢駒形神社」に保管されている「大日如来前立」の兜です。

この兜は三日月ではなく日輪がかたどられ、その中には「大日如来(だいにちにょらい)」をあらわす「アビラウンケン」の真言があしらわれています。この兜には他にも正面に右から「諏訪大明神」「八幡大明神」「伊勢天照大神」「春日大明神」「摩利支天」といった日本での信仰の深い神仏が鉢に刻まれています。

この兜は初陣の時に伊達政宗が着用したものといいます。これもまた父・伊達輝宗が用意したものだと考えると、いかに伊達政宗が大事にされ深い愛に包まれていたかが分かりますね!

現在も見ることができる伊達政宗の兜

仙台市博物館で見れる!(ただし期間限定)

重要文化財文化財にも指定されている伊達政宗の兜、そして鎧の一式、「黒漆五枚胴具足」は現在、仙台市の「仙台市博物館」で保存されています。

重要文化財の展示は年間60日までと定められているため、通年での展示はされていませんが、企画展示として公開されています。仙台を訪れるタイミングと公開時期が合っていたらぜひ一度仙台市博物館に足に運び、戦国の息吹を感じてください!!

【仙台市博物館 公式サイト】
https://www.city.sendai.jp/museum/index.html

伊達氏当主の鎧が展示されてる青葉城資料展示館

伊達政宗の兜のデザインは子孫である歴代藩主やの作成する兜にもモチーフとして踏襲されています。その子孫たち、歴代の仙台藩主の鎧は「仙台市博物館」のすぐ近く、仙台城とも呼ばれた青葉城址にある「青葉城資料展示館」で公開されています。

こちらは通年公開されていますので、もし伊達政宗の黒漆五枚胴具足が公開されていない時期に仙台に訪れた際は、こちらだけでもご覧ください。また、前述の仙台市博物館でも歴代藩主の兜は展示されています。

【青葉城本丸会館 公式サイト】
https://honmarukaikan.com/

三日月の前立の兜を付け戦場を過ごした戦国大名・伊達政宗

三日月の前立を付け、戦国の時代を駆け抜けた伊達政宗は「最後の戦国大名」ともいわれており、合戦の数こそ少ないですが負けをほとんど知らない名将でした。

兜を付けて戦場を駆けた伊達政宗の半生

伊達政宗(だてまさむね)は戦国時代を生きた戦国大名の一人です。奥羽の名門伊達氏の嫡男として生を受け、幼名は梵天丸(ぼんてんまる)、元服した11歳からは「伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね)」と名乗りました。15歳で初陣をはたした後には「人取り橋の戦い」や唯一の負け戦「大崎合戦」と呼ばれる合戦をしました。

23歳の時に東北の関ヶ原の戦いともいわれる「摺上原の戦い」に勝利することで南奥州を制覇、114万石の領地を持つ大大名となりました。豊臣秀吉への臣従した後は「葛西・大崎」で発生した一揆の鎮圧に成功しています。文禄の役(朝鮮出兵)にも増援軍の一人として参戦しています。

豊臣秀吉の死後は徳川家康と親交を深くし、関ヶ原の戦いの際は上杉軍が徳川軍の後ろを突けないように睨みつけていました。戦国時代最後の合戦「大阪夏の陣」でも名将「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」を討つといった活躍しました。その後は兜を身に付ける事も無く、外様大名として徳川幕府に仕え、三代将軍「徳川家光(とくがわいえみつ)」の時代まで生き抜きました。

兜だけでなく他の面からも伊達政宗に関して紹介した記事がありますので、併せてご覧ください。

伊達政宗は気遣いの人?名言から見る伊達政宗の意外な一面

伊達政宗の像は仙台城址だけじゃない!宮城県にある伊達政宗像を紹介!!

伊達政宗の子孫って今何をしているの?現在活躍している伊達政宗の子孫を紹介!

まとめ

伊達政宗の兜には父・伊達輝宗からの愛情が込められていたんですね!伊達政宗もまたそんな父親を敬愛していたからこそ兜の意匠を変えることなく戦国の世を生きたのではないでしょうか。

重要文化財のためいつでも見られるわけではないですが、現在でも伊達政宗の兜や鎧は仙台市博物館で見ることができるそうなので、旅行で仙台を訪ねた際は事前に確認しておくといいかも!?

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