織田信長の名言から見る「生きることへの心構え」

戦国時代だけでなく、日本史で最も有名な人物ともいえる織田信長(おだのぶなが)。
彼は順風満帆な人生を送ったとは決していえません。
49年の波乱万丈の人生を送っていました。

時には信長包囲網とよばれる敵対勢力の連合が組まれることもあり、彼が望んだ天下統一が進まないこともありましたが、本能寺の変で亡くなる直前には中国地方、四国、越後、関東と日本各地方の制圧一歩手前、天下統一も見えるところまで来ていました。

そんな戦国時代が生んだ最大の英雄、織田信長の言葉には生きることへの心構えというべき名言をご紹介します。

織田信長とは

 

まずは、織田信長の人生を追ってみましょう。

織田信長の人生

織田信長は、織田信秀の長男として生を受けました。
1560(永禄3)年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元(いまがわよしもと)を打ち破ると、1568(永禄11)年、征夷大将軍の足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛しました。
しかし、1573(天正元)年に織田信長の意に反する行為を繰り返した足利義昭を追放し、足利幕府を滅亡させました。

1582(天正10)年、甲斐の武田勝頼(たけだかつより)を討ち、甲斐の名門武田家を滅亡させましたが、中国地方の毛利氏を攻めていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)(当時の羽柴秀吉(はしばひでよし))からの援軍要請に応えるべく、中国地方に向かいます。
しかし、途中で京都に寄った際に重臣・明智光秀(あけちみつひで)の裏切りにあい1582(天正10)年6月に本能寺で自刃しました。

意外??!!弱小勢力から始まった織田信長の戦国時代サバイバルレース

織田信長が父親の織田信秀(おだのぶひで)から「弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)」を継いだ時、まだ尾張国を勢力下には納めていませんでした。
当時の尾張国には「守護」は斯波氏(しばし)と、その配下「守護代」として尾張国上四郡を治める「岩倉織田氏(織田伊勢守)」と同じく守護代の尾張国下四郡を治める「清洲織田氏(織田大和守家)」がいました。

織田信長の「弾正忠家」はこの清洲織田氏に仕える清洲三奉行家のひとつ。
そのため、尾張の支配者、斯波氏の配下の配下としてスタートしたのです。

負けも敵も多いが、決して屈しない男織田信長

織田信長率いる織田軍は、90回ほど合戦をしています。
敗戦も20回と決して少ないとは言えない回数を負けています。
「桶狭間の戦い」も直前までは領地内の鷲津砦などの防衛に失敗しています。

妹のお市から袋の両端を紐で縛られた小豆が送られてきたことで袋の鼠、浅井長政(あざいながまさ)の裏切りを知って退却をしたという逸話で有名な金ヶ崎退き口、「金ケ崎撤退戦」も敗戦の一つです。
織田信長と同時期に活躍した武田信玄(たけだしんげん)と上杉謙信(うえすぎけんしん)にも敗北をしています。

最期の戦い「本能寺の変」でも明智光秀に負けて自刃していますので、決して戦に強い人物だったとは言えません。
しかし「本能寺の変」以外の戦いでは、その後の戦いで一族を滅亡させることも多々あるほどの勝利をおさめることでリベンジを果たしているというのが織田信長の戦いの特徴です。

90回も戦わねばならないほど周りは敵だらけでしたし、負けることも多々ありましたが、決して諦めない心持ちが天下統一に近づいていった要因の一つなのかもしれません。

織田信長の名言から人生と戦いに対しての心構えについて学ぶ

 

過酷な状況の中で戦国時代を生き抜き、地方の弱小勢力から天下統一の目前まで勢力を広げた織田信長。
そんな織田信長の言葉には生きる上での心構えになる名言がありましたので紹介します。

「運は天にあり」

これは「桶狭間(おけはざま)の戦い」の時の言葉です。
織田信長の臣下、太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた織田信長の一代記「信長公記(しんちょうこうき)」では「あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて 手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。その上、小軍なりとも大敵を怖るなかれ。運は天にあり。」と言って味方を鼓舞したといいます。

この鼓舞の内容を現代語訳すると「敵兵は夜明け前に食事をし、夜間移動した後に朝から鷲津・丸根の砦を攻めて疲労困憊だ。しかしそれに対してこちらはまだ疲れていない。兵の数はこちらが少なくても恐れることはない。運は天が決めるものだ。」となります。

相手が大軍だが状況的には自分たちの方が恵まれているし、運は目に見えないのだから戦ってみないと結果がどうなるかわからないのだから諦めるなと織田信長は味方を鼓舞したようです。
諦めずやってみる、この一心があったからこそ大逆転を果たせたのではないでしょうか。

「恃むところにある者は、恃むもののために滅びる」

「恃む(たのむ)」には「人に期待をすること、あてにすること、依存する」といった意味があります。
ですので、「人をあてにすると、期待したためかえって身を滅ぼすような目に合う」といった意味合いになります。

頼れる相手でも信じ切って隙を見せるな、痛い目を見ることになるぞ」ともとれるこの言葉ですが実際、織田信長は謀反や裏切りの多い人生でした。
弟・織田信行(おだのぶゆき)や筆頭家臣の柴田勝家(しばたかついえ)、筆頭家老の林秀貞(はやしひでさだ)、それに義弟の浅井長政(あざいながまさ)に将軍・足利義昭(あしかがよしあき)、なにより「本能寺の変」を起こした明智光秀(あけちみつひで)と織田信長にとっての重要人物に度々裏切られてきました。
そんな織田信長の「信じた相手でも用心して隙を見せるな!」という言葉は一層重く響きますね!!

「人、城を頼らば、城、人を捨てん」

「城は重要とはいえ拠点にすぎないので、人のように働くわけでもない。城が堅牢だと安心して油断していると城が落ちてしまう」といった意味合いになります。
大事なのは場所ではなく「人」である、と織田信長が考えていたというのが分かります。

実際、重臣を亡くすといった苦労をして得た「天筒山城(てづつやまじょう)」と「金ヶ崎城(かながさきじょう)」も浅井長政の裏切りを知ると何の躊躇もなくこの城を放棄を決め、即時全軍での撤退を命じます。
拠点に固執していては替えの利かない人材を失うのは本末転倒と織田信長は考えていたようですね。

織田信長の名言ではない、織田信長が言ったと思われがちな言葉

 

織田信長をあらわすのに有名すぎるので本人が言ったと思われがちですが、実は織田信長の言葉では無いものがありますので紹介します。

人間50年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり

これは「源平合戦」の終盤「一ノ谷の戦い」での戦いを描いた幸若舞(こうわかまい)「敦盛(あつもり)」の一節です。
幸若舞は室町時代に流行した語りを伴う曲舞のことで、能と共に武家が愛好した芸能でした。
この「人間(じんかん、もしくはにんげん)50年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり」というのは敦盛の一場面、「熊谷直実(くまがいなおざね)」という源氏の武将が、出家して世をはかなむという内容の一節の一部です。
織田信長は特にこの節を好んでおり、有名な「桶狭間の戦い」の前夜、この一節を舞ってから居城であった「清州城」から出陣したと伝わっています。

内容としては「人間界での50年とは天界の一つ下天では一昼夜のことにすぎず、夢かまぼろしのようなはかないもの」という意味です。
織田信長はこの一節を舞うことで人生の流れの儚さを思っていたのかもしれませんね!

曲舞の一節なので決して織田信長の言葉ではありませんが、信長の好んだ言葉、ではあるかもしれません。
ちなみに「人間50年」は、「人間の一生は50年に過ぎない」といった意味ではないのでその点ご注意を。

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

織田信長の苛烈な性格をあらわすものとして耳にするこの歌。
実は織田信長が詠んだものではありません。

これは江戸時代後期1821年~1841年にかけて肥前国平戸藩第九代藩主「松浦清(まつらきよし)」によって書かれた「甲子夜話(かっしやわ)」の中で詠み人知らず(作者不明)の川柳として紹介されています。
実際、織田信長の時代にはまだ俳句も川柳もなかったので織田信長がこの川柳を詠めるわけがないんです。

江戸時代の織田信長像は、自分の言うことを聞かない存在は排除する、という冷酷な人間と考えられていたということが伝わってきます。

まとめ

諦めるな!人を信じすぎて隙を見せるな!人材こそ大事、とそれぞれ違う角度から見た信長の人生観のある言葉を紹介しました。
織田信長の行動に伴った言葉ばかりでしたので、言行一致の人物と言うこともよくわかりますね!

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