徳川家康の名言!天下統一を果たした慎重さが伝わってくる言葉の数々を紹介

過去の偉人の名言には、その人物の歩んできた人生の含蓄が込められているので、座右の銘にしている人も多くいます。

そんな数多くある偉人の名言の中でも、ビジネスマンや社長たちがその名言に感じ入っているというのが、日本を統一し戦国の世を終わらせ、250年以上の戦争の無い時代と強大な政権「江戸幕府」を作り上げた英雄「徳川家康(とくがわいえやす)」の言葉です。
しかし彼は決して苛烈な人間ではなく、慎重な人間でした。

慎重だからこそ天下統一できたのだとわかる名言や、徳川家康がのこしたといわれる遺訓、そしてその言葉の意味をご紹介します!

目次

徳川家康の苦労人人生

 

幼少期から織田信長が亡くなるまでの苦労

徳川家康はまさに苦労人としか言えない人生を送っていました。
幼少期は織田氏、そして今川氏の人質として過ごし、元服をし成人と認められた後も今川家の家臣として勤め、出生地の岡崎には戻れませんでした。

転機が訪れたのは桶狭間の戦いで、織田信長に今川義元(いまがわよしもと)が敗北したことでした。
今川義元が討ち取られ混乱している隙に、今川軍が放棄した岡崎城に帰還、実に13年ぶりに生まれ故郷岡崎への入城を果たしたのでした!

その後は織田信長(おだのぶなが)と同盟を組み、お互いの勢力を広げていましたが、その後も苦労人としての人生は続きました。
1570(元亀元)年、信長を助け朝倉攻めに参加しますが、織田信長の義弟・浅井長政(あざいながまさ)が裏切ったことで金ヶ崎崩れとも呼ばれる撤退戦が勃発、これに参加したともいわれています。

1573(元亀3)年には三方ヶ原の戦い武田信玄を相手に大惨敗
さらに1579(天正7)年、同盟相手の織田信長から正室の築山殿と嫡男「松平信康(まつだいらのぶやす)」に対して武田氏への内通疑惑がかけられ二人を処刑することになる、といった数奇な人生を送っています。

豊臣政権下での苦労人人生

1582(天正10)年に本能寺の変で織田信長が亡くなった際には堺(大阪府堺市)にいましたが、供も極少数と危険な状況でした。
しかし険しい山道を越え、伊勢国(現在の三重県を中心とした地域)から海路で三河国に辛うじて戻り、危機を乗り越えました。
これは伊賀越えと呼ばれ、徳川家康の屈指の危機とされています。

織田信長亡き後は織田信長の次男「織田信勝(おだのぶかつ)」の下で、後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)と呼ばれる羽柴秀吉(はしばひでよし)と対立。
小牧・長久手の戦いでは森・池田勢を討ち優勢になりましたが織田信雄が羽柴秀吉からの講和を受け入れたため、戦うことの大義名分を失ったことで終戦することになりました。

さらにこの後、徳川家康も羽柴秀吉からの講和を受け入れ、更に羽柴秀吉に臣従を誓いました。
ここで羽柴秀吉は織田信長の後継者「天下人」として大きく躍進し、逆に徳川家康は天下人への道は一度閉じかけることになります。

徳川家康を臣従させた羽柴秀吉は豊臣秀吉と名乗るようになり更に勢いを増していきます。
九州・関東・そして東北を平定した豊臣秀吉は、徳川家康に国替えすなわち領地変更を命じます。

なんと三河国から関八州への変更でした。
相模国(さがみのくに)・武蔵国(むさしのくに)・安房国(あわのくに)・上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)・常陸国(ひたちのくに)・上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)と関東地方全域に当たるこの新領地は石高は確かに増えますが、先祖代々の土地から離される上に、当時の日本の中心地「京都」から遠くになります。

この国替えは明らかに徳川家康の勢力を削ぐのが目的でした。
しかし、当時の豊臣秀吉の絶対的な権勢には逆らえず、徳川家康はこの国替えを受け入れました。

その後、徳川家康は関東の大開拓を行い、江戸を現在の東京につながるまでに成長させました。

天下人徳川家康

豊臣政権下では内大臣という朝廷で第四位にあたる官位を授けられた他、豊臣秀吉の後継者「豊臣秀頼(とよとみひでより)」の補佐として設けられた五大老にも選ばれ厚遇されていました。
豊臣秀吉からは「秀頼が成人するまで政事(まつりごと)を家康に託す」という遺言を受けていたといいますから、かなり厚い信頼を受けていたようです。

実際、豊臣秀吉の死後は五大老筆頭として豊臣政権の中枢で活躍していました。

豊臣政権の中枢として活躍していく中で、豊臣政権の官僚ともいうべき五奉行の一人「石田三成(いしだみつなり)」と敵対、武力衝突するまでになったのが関ヶ原の戦いです。
この合戦に勝利し更に豊臣政権内で力を増した徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」を与えられます。
これにより江戸幕府を開くことになるのですが、豊臣政権と江戸幕府の二つが並び立つ状況になりました。
政権が二つある状況ですが、豊臣政権は全て徳川家康が政務をとりしきっていたためため、すでに政務能力はありませんでした。

そのため豊臣政権は政権としての立場を諦め、豊臣氏という一大名として存続をはかるしかありませんでした。
しかし豊臣家はその道を選択することなかったため、二度にわたる大阪の陣が勃発。

大阪夏の陣で豊臣秀頼は自刃したことで豊臣氏は滅んでしまいました。
こうして織田氏の人質から始まった苦労の末徳川家康は天下統一を果たし、250年にもわたる江戸時代の礎を築きました。

慎重さが伝わってくる名言集

 

天下人になるまでの徳川家康は決して順風満帆な人生ではなく、苦労の連続でした。
その為、慎重に生きることの大切さを伝える言葉が遺されていますので紹介します。

得意なことでも危ない場所ではリスクを避ける慎重さ

あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。これが秘伝である。

徳川家康が小田原攻めに参陣した時のことです。
川を渡る時に徳川家康が下馬して渡ったことを指摘された際に語ったといわれています。
徳川家康は、室町時代の初期の人物「大坪慶秀」を祖とする大坪流という馬術を習っておりました。

そのため馬を操るのは人並み以上に得意だったそうです。
ですが、徳川家康は危ない渡河の際には万一のことがあってはいけないので馬から降りて安全に行動したといいます。

得意なことだからできるだろうと高をくくらずに、リスクを避けて行動をする慎重派というのがよくわかる言葉と逸話ですね!

勝つものの条件

戦いでは強い者が勝つ。辛抱の強い者が。

江戸時代、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という亡くなった徳川家康を評価する歌ができました。
この歌はひたすら耐えて好機を待っていた徳川家康のことをうまく表現した歌です。

実際、徳川家康自身、耐えることが重要であるとのこしたのがこの言葉です。

徳川家康は豊臣秀吉が亡くなるまで忠臣として働き、亡くなった後も豊臣家の家臣として政務を取り仕切りました。
そして実務を重ねた結果、実際の権力も徳川家康にシフトしていきました。

そのことに石田三成が我慢できなかったため勃発したのが関ヶ原の戦いです。
この天下分け目となった合戦まで積極的に動くことなく耐えたため、天下の中心人物として動けるようになったのです。

物事の決断することに対する徳川家康の存念

決断は、実のことろそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。

慎重に行動する徳川家康ですが、若い時には直情に任せた行動をして大失敗をしたことがあります。
それが武田信玄との合戦三方ヶ原の戦いです。

これは当時三河国(現在の愛知県東部)を治めていた徳川家康が、上洛を目指して西進していた武田信玄に挑んで負けた合戦です。

この合戦は三河国に侵攻してきた武田信玄が、徳川家康の居城の浜松城を攻めることもせず通り過ぎたことに対し、若い徳川家康が逆上。
家臣からの進言を無視して浜松城で籠城をして迎え撃つという計画から武田信玄を追撃することに変更したところ、三方ヶ原で待ち受けていた武田信玄に返り討ちにあい、徳川家康は這う這うの体で逃げ出した一番の敗戦となりました。
このように感情に任せた短慮による敗戦から徳川家康の熟慮することの重要性を学んだからこそ、徳川家康はこの言葉が出てきたのではないでしょうか。

徳川家康の遺訓が名言

 

東照公御遺訓

この「東照公」というのは徳川家康のことです。
1616(元和2)年に徳川家康が亡くなると、静岡県静岡市にある久能山に葬られ、一周忌の後に日光にある東照社に分霊されました。

さらにその後、1617(元和3)年に東照大権現の神号が与えられ「東照神君」や「権現様」と呼ばれるようになりました。
そして「東照公」も神号にあやかって呼ばれている名前の一つになります。
その徳川家康が遺した教え、すなわち遺訓が「東照公御遺訓」です。

その遺訓の内容は下記の通りになります。


人の一生は重荷を負いて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず 
不自由を常と思えば不足なし 
心に望み起らば困窮したる時を想い出すべし 
堪忍は無事長久のもとい 怒りは敵と思え 
勝つ事ばかり知りて負ることを知らざれば害その身に至る 
おのれをせめて ひとを責むるな 
及ばざるは 過ぎたるよりまされり

その意味合いは・・・

人生とは重い荷物を背負って遠い道のりを歩き続けるようなものだ。周りに気を配って焦らずに歩を進めなさい。 
不自由な事がいつも通りのことと考えて行動すればなんてことは無い。物事や人は思い通りにいかないのが当たり前なのだから。 
何かを求めたり欲が出てきたら苦しかったころを思い出して初心に帰るべきです。 
辛抱し耐えることが、平穏無事な日々を送る秘訣なのであり、我慢をせずに怒りのままに生きたらその平穏は台無しになってしまいます。 
勝つことは自信につながりますが、負けて課題や欠点を学ばなければ人は自信過剰になり、傲慢になってしまいます。 
人のせいにするのではなく、自分に悪いところはなかったかを省みなさい。 
何事も多少不足があるほうがやり過ぎてしまっている状態よりいい状況です。

とあります。
含蓄のある言葉が多く、どこか一部だけでも人生のモットーにできる名言ですよね!
ところがこの言葉、どうやら徳川家康が遺した言葉では無いともいわれています。

徳川家康の言葉では無い?水戸黄門・徳川光圀のことば?

 

この東照公御遺訓は日光東照宮や久能山東照宮に保管されていることから、徳川家康が遺した言葉とされていました。
しかし、尾張徳川家第21代当主だった徳川義宣(とくがわよしのぶ)氏が纏めた研究で徳川家康の言葉では無いと明らかにされました。

・この御遺訓の字体が徳川家康の時代のものと違う 
・文体が美文調 
・江戸幕府の公式史書「徳川実紀」に記載がない 
・花王が徳川家康のものではない

という点を根拠に東照公御遺訓は徳川家康の言葉ではないと断定されています。
そのうえで、この言葉は水戸藩主「徳川光圀(とくがわみつくに)」が書いた「人のいましめ」が元になっていると考察されています。

この「人のいましめ」があまりに徳川家康の人生当てはまったので徳川家康の言葉と信じられたそうです。
徳川家康の言葉では無いというのは驚きですが、名君として有名な「徳川光圀」の言葉が元といわれると、いい言葉であることには変わらないな!と感じますよね。
なにせあの水戸の黄門様の言葉なんですから!!

まとめ

徳川家康の言葉には自分が若いころにした失敗を踏まえたうえで慎重さと熟慮の大切さを説く言葉や、天下人になったからこそ言葉の重みがある「辛抱の強い者が勝つ」という言葉がありましたね!

有名な「人生とは」ではじまる御遺訓が徳川家康の言葉では無いというのは驚きでしたが、徳川家康のための言葉のような気もします。
なにより人生訓がしっかり詰まった言葉なので、徳川家康の言葉でないにしても至上の名言であることには変わらないのではないでしょうか!!

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