主君に気配りするのを忘れない。日本屈指の忠臣・石田三成の名言

石田三成は豊臣家のために尽力を果たし、行動だけでなく言葉にも主君、豊臣秀吉への気配りを感じるものがある人物です。
また、自分の家紋を働くのがあらゆる人々のためなのだと示すものにして利己的なことをしないと内外に示していました。

豊臣秀吉に見出され、豊臣政権の奉行として活躍、豊臣秀吉の死後は豊臣家に仇なそうとしていた徳川家康の打倒を目的に関ヶ原の戦い敗北した人物、石田三成の名言と家紋の意味する言葉をご紹介します。
また、石田三成がどのような活躍をしたかについても見ていきましょう。

主君に気を配るのを忘れない名言

 

常に奉公人は、主君より取物を遣ひ合せて、残すべからず。残すは盗なり。つかひ過ごして借銭するは愚人なり

石田三成の俸禄の使い方の考えをよくあらわしたのがこの言葉です。
言葉遣いを現代風に改めてみましたのでごらんください。

君からの俸禄をしっかり使い切らないといけない。一部を残して貯めるのは俸禄を盗んでいるのと同じことだ。だからといって使いすぎて借金をしている者はそれはそれで愚か者のする事だ。
報酬は綺麗に使い切り、貯めてはいけない。そして何より足りなくなって借りるようになってはいけない、という考えを持っていた石田三成は、人材の登用をすることで積極的に実現していました。

石田三成の下には有能な配下として、治部少輔に任じられた頃の石田三成が自分の知行の半分で召抱えたとされる「島左近(しまさこん)」や、500石の知行で豊臣秀吉の小姓をしていた時代には、その知行全てを渡し、「自分が100万石の大名になった際には10万石を与える」と約束したという「渡辺勘兵衛(わたなべかんべえ)」などがいます。

報酬をただ貰うのではなく、有能な人物を雇うことで主君の豊臣秀吉により役に立てると考えていたのでしょう。

このように投資にかなりの金額を回していた石田三成には、遺産がほとんどありませんでした。
関ヶ原の戦いの後、奉行職や重要な役職を歴任してきた事もあって石田三成は遺産を溜め込んでいただろうと考えて徳川勢が石田三成の居城を改めたところ、金目になるものはほとんどなかったといいます。
最期まで綺麗に俸禄を使い切っていたのですね。

成るべく、季節のものをば進上ありたし

五大老の1人に選ばれる事になる毛利輝元、彼は織田信長と敵対していましたが、豊臣秀吉に臣従し信頼を得ていました。
そんな毛利輝元が季節外れの時期に、豊臣秀吉へ桃を献上しようと訪れました。
しかし、石田三成は季節外れの果物で豊臣秀吉が体調を崩すことを恐れてこの言葉と共にその桃を返上したと言います。

もちろん毛利輝元に悪気はなく、ただ珍しいものを入手したので豊臣秀吉を喜ばしたい一心で持ってきたものでしょう。
それでも石田三成は主君の体調を何よりも優先し、豊臣政権の重要人物毛利輝元からの贈り物を返したというのです。

石田三成が豊臣秀吉を最優先で考えていたかが分かるエピソードと言葉です。
毛利輝元でさえ贈り物を断られることがあったのですから、他の大名の贈り物を返すことは稀ではなかったのかもしれませんね。

家紋に込めた武士としての理想、天下万民を想った言葉

 

大一大万大吉

石田三成の武将としての理想は家紋に言葉として集約させていました。
一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は皆幸せにになる」という意味するのが、石田三成が用いた大一大万大吉の家紋です。
決して自分のためだけに動かない、万民を幸せにするために動くという決意を家紋でもあらわしていたようです。

豊臣秀吉に見出された人物、石田三成

 

このように豊臣秀吉にひたすら忠義を尽くし、天下万民のために身を尽くし、清貧ともいえる俸禄の使い方をした石田三成という人物が、どのようなことを成し遂げた人物なのかを見ていきましょう。

側近として豊臣秀吉に仕える石田三成

豊臣秀吉が羽柴秀吉を名乗っていた近江長浜城主であった1574(天正2)年頃に石田三成は出仕しました。
実際正確な出仕時期はわかっていませんが、豊臣秀吉の中国攻めには従軍しているため、出兵開始の1577(天正5)年には出仕していたと考えて間違いないようです。

豊臣秀吉が中国攻めをしていた1582(天正10)年、織田信長が本能寺の変で亡くなると織田家の中で権力争いが始まります。
その中でも特に大きな争いが豊臣秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」、豊臣秀吉が織田信雄と徳川家康の連合軍と戦った「小牧・長久手の戦い」です。

2つの戦いに石田三成も参加し、特に「賤ヶ岳の戦い」では「賎ヶ岳の先駆け衆」と呼ばれる人員に入っており、一番槍の功名を挙げています。
石田三成と聞くと豊臣秀吉の文官という印象が強いですが合戦でも活躍を果たしていることが分かります。

天下人の官僚として活躍

1585(天正13)年に豊臣秀吉が関白に任じられた際、石田三成にも従五位下治部少輔(じぶしょうゆう)に任じられます。
豊臣秀吉が天下人に近付くにつれ、合戦で戦う事よりも文官としての才能が目覚め、その力を主君の豊臣秀吉に認められて活躍の場を変えいきますので、その活躍の一部を紹介します。

・1586(天正14)年堺奉行に取り立てられました。
貿易港であり独立自治都市としても栄華を極めた堺を従属させることに成功、港としての機能は消し去り、大坂を城下町として繁栄させるようになります。 
・1587(天正15)年の九州平定後は博多奉行に任じられ、博多の町割りや復興に尽力しました。 
・1590(天正20)年の奥州仕置で豊臣秀吉による天下統一がなると、奥州の検地奉行を勤めあげました。 
・文禄の役では、総奉行として豊臣秀吉と現地の連絡役や明との講和交渉を、慶長の役では国内での後方支援を任されました。

豊臣秀吉の亡き後も忠臣として活躍

豊臣秀吉が亡くなると、次第に徳川家康が次の天下人の立場を狙っているのを明確にしてきました。
しかし、その勢いを止めることができなかった石田三成は、関ヶ原で徳川家康と武力衝突することになります。

これが1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」です。
軍勢は総大将として毛利輝元を据えた、石田三成の西軍が80,000以上、徳川家康率いる東軍が74,000以上という戦力を集めた大合戦になりました。

陣地取りなど合戦前の状況では西軍が有利とみられていましたが、徳川家康による事前調略や時勢を読んだ武将の裏切りにより東軍の徳川家康が勝利、惜しくも敗退した石田三成は逃亡します。
しかし逃亡もむなしく捕縛され、家康の命により六条河原で斬首されました。

こうして豊臣家の忠臣石田三成は徳川家康の野望を阻むことに失敗し、息を引き取ったのでした。

まとめ

石田三成は自分を重用してくれた豊臣秀吉を非常に敬愛しており、万一体調を崩してはいけないと贈り物一つにまで常に気を配っていました。
また、自分の勢力をより大きくするための雇用ではなく、しっかり報酬を使い切り主君の役に立てるようにする、という人物はそういないのではないでしょうか。

この二つから石田三成が忠義者だったかわかりますし、自分の権威をあらわすことに使われることの多い家紋を、全員が幸せになるには!というモットーにしていたというのも石田三成が実直な性格だというのも伝わってきます。

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