古代中国の物語として人気を博す三国志。
群雄割拠の時代の中、数多くの英雄が活躍することもあって日本でも人気が非常に高いですよね。
王や武将と軍師や魅力的な人物が多く出てくる中、日本では最強の武将として高い人気を誇るのが「呂布」です。
三国志の中で最強と呼ばれた彼がどのような人物で、いかに強かったのかを今回はご紹介します!
目次
三国志の英雄呂布
呂布の名前について
中国後漢末期、三国志の時代に活躍した武将「呂布」は、字(あざな)を奉先(ほうせん)といいます。
字(あざな)とは
字とは中国などで用いられる人名の要素です。
中国では「姓(せい)」「諱(いみな)」「字」という三要素から名前が構成されており、「諱」は親や主君、年長者など目上の人物以外は軽々しく呼んではいけないものとされています。
その為本来ならば「姓」+「字」の「呂奉先」と呼ばなければいけないのですが、この紹介の中では一般的な呼び方「姓」+「諱」の「呂布」としてご紹介します。
また、他にも「姓」+「諱」で一般的に呼ばれている人物がいますが、そのまま一般的に聞く呼称でご紹介します。
呂布の出生地は?
実は呂布の生年も出生地もはっきりとわかっていません。
最初の主君「丁原(ていげん)」に仕えたのが并州(へいしゅう)なことから、出生地も并州と考えられています。
并州とは現在の「山西省の大部分」と「河北省の一部」そして「内モンゴル自治区の一部」にまたがっていた行政区画です。
并州は現在のモンゴルに近いことから、馬術や弓術に優れた人物が多かったと考えられています。
呂布もまた、武勇と勇敢な性格から丁原に見込まれて出仕したといいます。
三国志演義で描かれた姿
三国志から1000年以上経った明の時代に書かれた小説「三国志演義」。
一般的に知られている三国志の内容はこの三国志演義の物語に基づいたものです。
その中で呂布は背丈を一丈(約230cm)、その身に葉煌びやかな鎧を纏い、愛用の武器「方天画戟(ほうてんがげき)」を携え、愛馬「赤兎馬(せきとば)」にまたがった勇猛な姿で描かれています。
また、京劇の中では恋愛劇や華々しい戦闘場面があるため悪役ながら美形の偉丈夫として描かれています。
呂布の評価
呂布の評価は中国と日本で大きく違います。
孝や忠、仁について説く儒教の教えが強い中国では、丁原、董卓、献帝、袁術、袁尚、張楊と主君を次々裏切っただけでなく、三国志演技においては義父とされた丁原と董卓を相次いでその手にかけたことから、評価は甚だ芳しくないです。
これは中国では主君への忠よりも親への孝が更に重視されているためです。
そのため、孝も忠も低い呂布が評価されないというのは仕方のないことかもしれません。
具体的な評価を紹介します。
歴史書の三国志をまとめた陳寿(ちんじゅ)は「呂布有虓虎之勇、而無英奇之略。輕狡反覆、唯利是視。自古及今、未有若此不夷滅也」(呂布は虎のように勇ましく強いが優れた策は無く、狡猾だが軽はずみに裏切りを繰り返しては利益のみを求めていた。歴史上、このような人物が破滅しなかったためしがない)と辛らつに評価しています。
しかしその強さは誰もが認めることだったようです。
北宋の時代の軍事学者・何去非は「呂布驍勇,転闘無前而争兗州」(呂布は実に強く勇ましく、兗州の戦いの際に見せた姿はおいてまさに無敵と言えた)と評価されていますし、呂布の配下であった陳宮(ちんきゅう)は「呂布壯士、善戰無前」(呂布は血気盛んな戦士であり、戦えば敵などいない)と評していました。
日本では呂布の圧倒的な強さと報われたとは言い難い人生、そして作品によって加味されたキャラクター性(男らしさを強調されていたり、最強を求める人物として描写されるなど)によって三国志の中でも人気の高い人物となっています。
呂布の生涯
度重なる裏切り人生
最初は丁原の配下として世に出てきた呂布ですが、そのたぐいまれなる巨躯と優れた武勇から時の権力者董卓に気に入られます。
何としても呂布を味方にしたかった董卓は呂布に名馬赤兎馬を与えることで、丁原から裏切らせることに成功したといいます。
その後の董卓は呂布を重用し、養子とするほど気に入っていたといいます。
しかし、呂布は悪政を敷く董卓を抹殺しようと目論む王允(おういん)の誘いに応じて、今度は董卓を裏切ります。
董卓を斬った呂布ですが、次の権力者になれたわけではなく、董卓の配下に追われたことで逃亡生活を送ることになります。
董卓を裏切ったことで始まった逃亡生活
各地を転々とし、袁術、袁尚、張楊と様々な人間を頼りますがうまくいかず、曹操の拠点、兗州(えんしゅう)の大半を占領するも、その後敗退してしまい、呂布は再度逃亡生活を送ることになりました。
逃亡生活の末、劉備が治める徐州(じょしゅう)にたどり着き、受け入れてもらいます。
ここまでに散々痛い目を見ていたはずですが、呂布は懲りることはなく、今度は徐州での劉備たちの本拠地である下邳(かひ)を奪い取りました。
裏切りを重ねた末、命を散らす
下邳を奪い取るだけでは満足しなかった呂布は、劉備が逃げ込んだ小沛(しょうはい)にも攻め込みました。
小沛を占拠された劉備が逃げ出したところ、援軍を依頼していた曹操が到着します。
再び上り調子だった呂布ですが、曹操が来たことで状況が一転します。
徐州へ大軍で侵攻した曹操ですが、呂布が籠城する下邳を直接攻めるのではなく水責めを始めました。
この水責めによって呂布軍では反乱が勃発、呂布を裏切った侯成(こうせい)らは、軍師の陳宮を捕らえたうえで投降してしまいました。
軍師の陳宮を失った呂布もまた投降しますが、許されることは無く曹操によって処刑されました。
こうして三国志最強の武将呂布は裏切りを重ねた末に、命を散らせたのです。
呂布最強伝説
丁原、董卓と主君を続けてその手にかけたうえで裏切り、逃亡生活の末に処刑された呂布ですが、戦場での活躍は群を抜いていました。
丁原や董卓に気に入られていたのもその軍功があったからであり、戦場に立った呂布は最強と称されています。
三英戦呂布
呂布の最強さが物語られる最初の場面は、三国志演技の序盤、董卓軍と反董卓連合による虎牢関の戦いの一幕です。
悪政をしく董卓を打倒するために集まった反董卓連合軍は20万もの兵を集めたといいますが、董卓軍の将軍華雄(かゆう)により足止めを食らっていました。
その芳しくない状況を変えたのが、劉備(りゅうび)の義弟として有名な関羽(かんう)です。
関羽が華雄を討ち果たすことで状況は一転、勢いを増します。
しかし、虎牢関の守備としていた呂布が、反董卓連合の前に立ち塞がりました。
反董卓連合の将が攻めかかっても返り討ちにする呂布の強さに、軍勢は士気が下がっていました。
そこに劉備の義弟の一人で、三国志の中でも猛将と知られる、張飛(ちょうひ)が呂布へ一騎討ちを挑みました。
最初は様子見をしていた呂布も、張飛の強さに驚き熱戦を繰り広げることに。
更に劉備と関羽が張飛に加勢しに来たことで、呂布対劉備義兄弟という1対3の構図になります。
しかし、呂布は一歩も引くことなく、劉備たち三人の攻撃をしのぎ、はじき返したのです。
結局、この戦いは退却の合図により双方撤退したため決着はつかず引き分けに終わりました。
しかし、如何に引き分けとはいえ、張飛と関羽という三国志でも最強の一角といわれる人物が2人いても、呂布を倒せる様子が無かったことから呂布の強さがいかにずば抜けていたかが分かるのではないでしょうか。
人中に呂布あり、馬中に赤兎あり
董卓をその手にかけ、都を追われた呂布が袁尚を頼った時、まさに最強といわれる手柄を呂布は挙げました。
呂布が袁尚の下に訪れたのは、袁紹が黒山賊の張燕と戦っている時でした。
黒山賊は強力な山賊でしたので、その勇名が世に轟く呂布の力に袁尚は期待し迎え入れました。
張燕はただの山賊ではなく、精兵一万と騎馬を数千匹を率いる軍勢ともいえる勢力でした。
しかし愛馬の赤兎馬に乗った呂布と、その配下数十騎が1日に何度も突撃することで、黒山賊を次々に討ち取り、十数日も続くと呂布を恐れた黒山賊は散り散りとなって滅んでしまいました。
一万対数十という劣勢で戦うのも凄いのですが、劣勢側が日に何度も突撃し、結果勝利するというのですから呂布の強さは尋常ではないですね!
この戦いで呂布は戦場を駆けた愛馬の赤兎馬と共に「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されました。
人間最強の呂布、馬の最強は赤兎馬と称えられたのです!!
まとめ
呂布は三国志の物語の序盤で活躍をし、無残な最期を迎える人物ですが、その強さは圧倒的。
それぞれの武勇は一万の兵に相当するとされた関羽と張飛を同時にしても動じない圧倒的なものでした。
次々に主君を裏切ったというのも、強すぎる呂布を誰も御しきれなかったからかもしれませんね!