戦国大名・北条氏政は無能?有能?情けない逸話と実際の功績の差が激しい・・・

世の中には実際はさておき、無能といわれている人物がいます。
戦国大名の北条氏政(ほうじょううじまさ)が正にその代表でしょう。

彼は鎌倉時代の執権、北条家と混合しないように後北条家ともいわれる北条家の四代目当主です。
彼の功績を見ると有能な当主だったはずなのですが、伝わっている逸話では無能さを強調されています。

無能と感じる逸話と実際の功績から、北条氏政という人物をご紹介します!

要領が悪いことにされた逸話

 

北条氏政には要領が悪いと烙印を押されてしまった有名な逸話が残っています。
しかし、その内容は「そんなことで!?」と思ってしまうような内容で、些細な事で要領が悪いとされてしまった北条氏政がちょっぴりかわいそうな気にもなってしまうものなんです!

逸話「汁かけご飯」

 

父に押された烙印

北条氏政が、父親の北条氏康(ほうじょううじやす)と食事をしていた時の出来事です。
北条氏政が食事の汁かけご飯に二度目の汁をかけようとしているのを北条氏康は目撃したことで、北条家の衰退を察しひどく落胆し、氏政では国を保つことは出来ないと、息子に要領が悪い奴という烙印を押したとされています。

なぜ?

ご飯に汁をかけようとしているのを見ただけでなぜ落胆したのか。
それは、「お椀という小さい器に、どれだけの汁を入れるのが適量かを判断できない」というのが要領の悪さと判断されたからです。
お椀でこれなのだから、広大な北条家の領地を適切に治める判断ができるわけがない。氏政では国を保てられないだろう、という深い考えを巡らせてのことでした。

なるほどと思う部分もありますが、流石にこれで判断されたらかわいそう。
二度汁を注ぐ食べ方が好きだっただけかもしれないのに・・・。

北条氏政は愚か者に仕立て上げられた!?

この汁かけご飯の逸話は北条氏政の愚かさを物語っているとされています。
しかし、この逸話はいつの時代に誰の手によって書かれたか不明とされています。

もしかしたら、北条氏政を無能という事にしておきたい人物によって考案された作られた逸話なのかもしれませんね。

無知扱いされた逸話

 

北条氏政が無知で何も知らない御曹司であるとされてしまった逸話も残っています。
この逸話も、氏政を悪く見せる為に作られたのではないかと思うような内容になっています。

刈りたての麦を麦飯に!

氏政の父北条氏康と、武田信玄が連合軍を組んで、上杉謙信軍と戦った際の出来事です。
農民たちが麦を刈って収穫しているのを見た北条氏政が「あそこで収穫している麦を麦飯にして食べたいので、持ってくるように」と命じました。

すると、それを聞いた武田信玄は「さすがに大身の御曹司なのでご存じないのでしょう。あの麦を食べれるようにするまでは様々な工程が必要なので、収穫したらすぐ食べれるようなものでは無いのです。」と説明しました。
この懇切丁寧にすべての工程を北条氏政に説明する武田信玄を見て、北条家の家臣達は北条氏政がものを知らないと見下されていると思いと、恥ずかしくなったというのです。

武田家によって評価を下げられた?

この逸話は甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の中で語られているものです。
甲陽軍鑑とは武田家の軍略などについてまとめた書物です。

この逸話の時は北条家と同盟を組み親交を深めていましたが、後年になると武田家と北条家は敵対することになります。
そのため、武田信玄をあらゆる知識に通じている上に懐の広い偉大な人物、反対に北条氏政については物を知らない評価の低い人物として書きあげるために、この逸話を作り出したのかもしれません。

実際は有能だった北条氏政

 

出典不明の物語や、敵対勢力となる武田家により低い評価を書かれる北条氏政ですが、決して無能の人物ではありません。
北条氏政の代で成し遂げた実績を紹介します。

軍神、上杉謙信の関東平定の野望を阻止する

北条氏政が家督を継いだ翌年の1560(永禄3)年に、上杉謙信による関東遠征が始まりました。
これは関東管領を名乗った上杉謙信による関東平定を目指した出兵でした。

上杉謙信率いる10万の兵に苦戦した北条軍は、居城の小田原城を包囲されるところまで一時追い込まれてしまいました。
しかしこの窮地は、①小田原城の強固な防御能力②上杉軍が兵糧不足を起こしたこと③自領の越後国で一向一揆が発生したことという状況が重なったことで上杉軍が撤退したので乗り越えました。

領土を最大に広げる

その後は武田家と同盟を組む、その同盟を破棄して上杉家と同盟を組むも、やはり上杉家との同盟が破棄することになり、徳川家と同盟を結ぶといった複雑な状況になりつつも、確実に版図を広げていきました。
最盛期には相模国・伊豆・武蔵国・上総国・下総国・上野国、更には常陸国・下野国・駿河国それぞれの一部、計240万石にも及ぶ広大な領土を治めていました。

汁かけご飯もまともに食べれないから国をうまく治められないだろう、なんて父である北条氏康の心配はなんだったのでしょうか!

織田家の進行を退ける

実は領土を広げるに際して、武田家を滅ぼした織田信長(おだのぶなが)の配下、滝川一益(たきがわかずます)の領土にも攻め込んでいます。

武田家滅亡前から北条家は織田家に臣従する意思がある事を伝えていたのですが、連絡が取れないといった故意に無視されている状況からの侵攻でした。
これは、織田信長が武田家の後に北条家を滅ぼす計画があったためとも考えられています。

しかし、北条家と織田家の戦いが本格化する前に、織田信長が本能寺の変で亡くなってしまいます。
そこで北条氏政は織田軍が混乱しているところを襲撃し、滝川一益を関東から撤退させました。
この際、上野国を領地として手に入れています。

武田家を滅ぼす前の織田家に臣従を誓おうとするなど、北条氏政には機を読む才能もしっかりあったようです。
織田信長に無視されるという結果にはなりましたが、先見の明があったことは確かなので、暗愚と称されるような人物ではなかったようですね!

北条氏政は何が駄目だったのか

 

上杉軍や織田軍という他家がかなわなかった強敵を退けることに成功している北条氏政ですが、一体なぜ無能の人物だったように言われているのでしょか。

小田原評定を纏めることができなかった

時間は長くかけるが、結論も出ない会議のことを「小田原評定」と表現します。
これは、豊臣秀吉により小田原城が攻められている中、小田原城内でおこなった重臣会議で有効な結論を出せなかったことから来ています。

北条氏政は家中の意見をまとめることも、結論を出すこともできませんでした。
豊臣秀吉の攻撃に対してなにひとつ有効な手立てを打てなかったのは、北条家を滅ぼすことなった結論と併せて考えると確かに問題視されるのは仕方がないのかもしれません。

後北条家を滅ぼした

北条早雲から続く有力な武家の後北条家を滅ぼすことになったというのがやはり痛かったようです。
北条氏政以外にも織田信長に桶狭間の戦いで討ち取られ、その後今川家が衰退の一途をたどることになった今川義元や、戦国時代最強とも云われる武田信玄を父に持ちながら武田家を滅ぼすことになった武田勝頼、彼らも再評価されるまでは暗愚といわれていました。

もしかしたら近い将来、北条氏政も再評価される日がくるかもしれませんね!

まとめ

小田原攻めでは有効な手立てを打つことなく敗北し、後北条家を滅ぼすことになったのでどうしても、歴代の北条家当主に比べて無能とされていたようです。
しかし、上杉謙信や武田信玄、織田信長と時代の英雄たちにその領地を狙われながらも跳ね返すことに成功しています。

そのため逸話にあるような判断ができない人物であったり、ものを知らないという人物では決してなかったようです。

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