真田幸村の兄で戦国武将の「真田信之」は、身内に翻弄された戦国時代最高の苦労人?

2019.11.15


「真田信之(さなだのぶゆき)」という戦国武将をご存知でしょうか?歴史好きな人には知られた人物ですが、一般的には残念ながら知名度がある武将とは言えません。

父親が『表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)』と呼ばれ戦国時代という荒波を乗り散った「真田昌幸(さなだまさゆき)」、弟は戦国最後の大合戦「大阪冬の陣・夏の陣」で活躍し『日本一の兵(つわもの)』と評される「真田幸村」です。

特に日本を代表する英雄の一人ともいえる真田幸村の影に隠れてあまり知名度は高くありませんが、実はこの真田信之もまた戦国時代に大いに活躍した人物です。そして、真田昌幸や真田幸村の行動、自分の子供達に翻弄され苦労の耐えない人生を送ってきた人物でもあります。

戦国時代で一番の苦労人ともいわれる真田信之、その人生や苦労しただろう点についてご紹介します。



10歳の頃から始まった真田信之の苦労人人生

武田家はもちろん真田家も主要人物が亡くなった長篠の戦い


真田信之は、武田家家臣の「真田昌幸(さなだまさゆき)」の長男として生まれました。

10歳の時に起きた織田家・徳川家連合軍と武田家が戦った『長篠の戦い』では、真田家の当主とその弟といった有力人物が相次いで亡くなるという一族の危機に直面します。これが真田信之が送ることになる苦労人人生の最初の大きな危機になります。

この時は真田家の三男で養子に出ていた真田信之の父・真田昌幸(当時の名前は「武藤喜兵衛」)が真田家の家督を継ぐことでなんとか落ち着きました。しかしこの時、真田昌幸が真田家の家督を継ぐことへの正当性を確立するため、長男の真田信之はイトコで前当主であった真田信綱の長女(実名不明)と婚姻します。

時勢を読み、その都度主君を変えなくてはいけない戦国時代を体感


その後は武田家で人質として過ごしますが『天目山の戦い』で武田家当主・「武田勝頼(たけだかつより)」が自害したため武田家が滅亡。真田家は仕える家を、武田家を滅ぼした織田信長に変えますが、その織田信長もわずか数ヶ月後、本能寺の変で亡くなってしまいます。

その後、安定しない関東の勢力状況を父・真田昌幸は見事に読み切り、後北条家・上杉家・豊臣家と次々と主君を変えることで戦国時代を生き延びてきました。

一度でも読み違えたら真田家は滅亡していましたから、父親であり真田家当主の真田昌幸がいかに優れた人物だったかが分かります。真田信之は父の下で、手子丸城を僅か一日で奪還する他、奇襲してきた北条氏邦の軍を撃退することにも成功し、武名を上げています。

徳川家への出仕で家庭内の危機!?


真田信之は豊臣家に仕えながらも徳川家の与力大名となりました。これは豊臣家の家臣でありながら他の大名家に加勢として出仕する、いわば出向のような役目です。豊臣秀吉も真田信之の能力を高く評価していたからこそ、徳川家の与力に抜擢したのだと考えられます。

しかし、この抜擢が信之の家庭内の波乱を巻き起こすことになるのでした。

豊臣家に直接仕える前、真田家は上野沼田領をめぐる合戦『第二次上田合戦』で徳川・北条の連合軍と戦っています。その際、真田信之は徳川家と戦い勝利を収めていたことから、「徳川家康」は真田信之を高く評価していました。そこで重臣・「本多忠勝」の娘・「小松姫」を自分の養女としたうえで真田信之と婚姻させるという話が持ち上がったのです。


当時の真田信之は「真田信綱の長女」を正室にしている既婚者!正室を2人抱えるわけにはいきませんので、小松姫を正室に迎えるのが難しい状況でした。しかし徳川家康は豊臣政権にとっても非常に重要な人物。その徳川家康の養女を正室にできないというのは許されるものではありませんでした。

結局、真田信綱の長女をなんとか正室から側室へすることで、小松姫を正室として迎える用意をしました。

元正室の真田信綱の長女との仲


側室となった真田信綱の娘ですが、その後真田信之と夫婦仲が極端に悪くなったということは無いようです。資料によって年号がバラバラなので特定できませんが、1593~1596年の間に真田信之の長男で上野沼田藩二代目当主となる真田信吉を産んでいます。

徳川家康が豊臣秀吉に臣従し、真田信之が徳川家の与力になったのが1589年、小松姫との婚姻はその後になりますので、仲が悪くなかったというのが確認できます。




涙!関ヶ原の戦い前、父と弟との別れ!!


真田家の進退を決めた家族の別れ「犬伏の別れ」


1600年、関ヶ原の戦いが始まる前、上杉家を討伐するのために会津を目指していた真田昌幸たち全国の大名のもとに「石田三成」から徳川家康を弾劾する手紙が届きました。

手紙の中身は徳川家康を討つため挙兵をしようとしている自分に手を貸してほしいと締めくくられていました。この書状を見た真田昌幸は長男の真田信之と次男の真田幸村を呼び寄せ、今後の進退を決める会議を行いました。

その結果、徳川家の与力大名であり徳川家康の養女で本多忠勝の娘を正室としてむかえている真田信之は東軍と呼ばれる徳川家康の軍に残り、妻が石田三成の妻と姉妹の真田昌幸と、石田三成の親友・「大谷吉継」の娘を正室としている真田幸村は、石田三成の陣営の西軍に参加することに決めました。

よく石田三成と徳川家康、どちらが残っても真田家は残るように分かれたともいわれていますが、親族の間柄を考えると真田昌幸・幸村と真田信之とで陣営が分かれてしまうというのは必然だったのかもしれません。

この家族での話し合いが行われたのは宇都宮城に向かう途中、現在の佐野市の郊外「犬伏」の地だったことから「犬伏の別れ」と呼ばれています。

家族で敵対することになった『第二次上田合戦』


犬伏の別れで家族は陣営を違え、真田信之は徳川秀忠軍の一員として第二次上田合戦に参戦しました。この第二次上田合戦では真田信之も属する徳川軍が38000の大軍なのに対し、真田昌幸が率いる真田軍は2~3000しかおらず圧倒的な兵力差でした。

しかし、真田軍は徳川軍を翻弄し足止めさせることに成功、徳川秀忠の軍は関ヶ原の戦いには間に合いませんでした。真田軍は健闘しましたが、肝心の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍が勝利したため、真田昌幸・幸村親子は降伏をすることになりました。

助命嘆願の末、なんとか命を救われたはずの弟が九度山から逃亡


関ヶ原の戦いの敗者である石田三成陣営に付き敗北した真田昌幸・幸村親子は、上田領の没収と死罪の命が下されます。それに対して真田信之は父と弟の助命を嘆願しました。さらに重臣で舅でもある本多忠勝を巻き込んだこの助命嘆願の結果、二人は高野山への蟄居へ減刑されました。その後二人は高野山の近く九度山へと蟄居先を変更しています。

真田昌幸・幸村親子は1600年の年末に上田城を発して蟄居生活に入りますが、10年後の1611年に父・真田昌幸が死去したことで九度山では弟の幸村一人で蟄居を続けることになりました。


しかし状況が大きく変わるのは真田昌幸が亡くなってから4年後、真田幸村が蟄居をはじめて14年目、1614年の事でした。

この頃、大坂城の豊臣家と江戸の徳川家では関係が悪化しており、武力衝突が目前に迫っていました。

そんな中、九度山に蟄居している真田幸村のもとにも大阪方から参戦を呼びかける使者が訪れました。この呼びかけに真田幸村は応じ、父・真田昌幸の旧臣に声をかけて大坂城へ入城してしまいました。

結果、兄である真田信之が各方面に助命嘆願をした末に蟄居で許されていたのが裏目に出てしまいました。その後の真田幸村は大坂冬の陣・夏の陣で「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれる大活躍を見せます。一時は真田信之の主君、徳川家康に死を覚悟させるほどの猛攻を果たしています。

もしこの時真田幸村が徳川家康を討ち果たしていたら真田信之はどうなっていたでしょうか・・・。

江戸幕政時代、大阪の陣から40年以上も当主として活躍

90歳まで現役!?江戸幕府は引退を許してくれないブラック企業?


豊臣家が滅び、弟の真田幸村も亡くなった二度の大阪の陣の後も、真田信之は真田家の当主として立ち続けます。そんな真田信之が隠居をできたのは1656年、江戸幕府4代征夷大将軍「徳川家綱」の時代でした。

当時90歳となっていましたが、これは江戸幕府が真田信之の隠居届を受理しなかったため隠居したくても現役の当主でいなければならなかったというのが実情です。

外様大名の真田信之は直接幕政には関わっていませんでしたが、戦国時代に活躍した最後の一人としてまだ幼い将軍・徳川家綱を見守る長老としての役目が期待されていました。そのことから「天下ノカサリ(飾り)」として隠居の願いは却下され続けていました。

隠居生活開始、と思ったら先立たれた息子にどうやら恨まれてたらしいことが発覚


隠居の許しが出た真田信之ですが、もう90歳と非常に高齢になっていることもあって、嫡男の「真田信吉(さなだのぶよし)」は1634年に40歳で逝去、真田信吉の嫡男もまたすでに亡くなっていました。そこであとを継ぐことになったのは次男の「真田信政(さなだのぶまさ)」です。

しかし、2年後の1658年3月、「真田信政」も亡くなってしまいます。後を継いでわずか二年ですが、真田信政はすでに60歳になっていましたので決して早逝ではありません。

高齢になって家督を継げる事になった真田信政は、実際には隠居を願っても許されなかったのが実情とはいえ、隠居する気配の無い父・真田信之に対して思うことがあったらしく、遺言状に真田信之については一切触れていませんでした。このことに対して真田信之は非常に立腹したと伝えられています。

そしてこの年でお家騒動に巻き込まれる


真田信之の苦労人人生は90を過ぎても終わりません。真田信政が亡くなったことでお家騒動が起きたのです。

真田信政には子供が何人かいました。幼くして亡くなってしまった子もいますが、男だけで6人いました。真田信政が遺言で後継者に選んだのはその中でも末子、6男の「真田幸道(さなだゆきみち)」です。

ここで家督を誰が継ぐのが正しいのか、という問題が起きたのがお家騒動のはじまりです。真田信之の長男・真田信吉の子にして真田幸道のイトコ「真田信利(さなだのぶとし)」が、自分こそ正当な真田家の後継者であると考え、江戸幕府に自分の正当性を訴える騒動となりました。

お家騒動は江戸幕府にとってお家取り潰しの理由になりますので、一歩間違えると真田家が無くなる一大事でした。この騒動は真田信之が真田幸道を後継とすることを支持し、真田信利が治めていた沼田領を沼田藩として独立させることで決着が付きました。問題として残ったのは真田幸道がまだ2歳と非常に幼いことでしたが、真田信之が復帰して藩政をみる事で落ち着きました。

このお家騒動を決着させる事が真田信之の最後の大仕事となりました。お家騒動を決着させた1658年10月、93歳で真田信之はこの世を去りました。亡くなる直前まで苦労が重なる人生でした。

まとめ


一族滅亡の危機を10歳で迎えてから80年以上、真田信之は正室との関係・父弟との別れ、別れた弟の逃亡・高齢になっても許されな隠居・そしてお家騒動と多くの苦労に悩まされていました。

それなのにこれだけ長寿ならよほど体が丈夫だったのだろうと思われますが、なんと真田信之は30代の頃から体の不調を多く訴えていたそうです。40代にもなると手の痛みや腫れ物の症状もあったといいます。

他にもマラリアにもかかっていますので、それらの症状での辛さもある中で気も休まらない苦労に悩まされる人生というのは非常に大変だったのではないでしょうか。

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