日本三大悪女を知ってますか?彼女たちはなぜ悪女と言われるようになったのか

「女って怖えぇ……」そう口走る男性もこの世の中、少なくはありません。筆者も女性関係で怖い経験をしたことが……という話はさておきに、現代だけではなく過去にも"悪女"と呼ばれた女性たちがいました。

そこで、ここでは日本三大悪女と謳われる女性にフォーカスし、なぜそう呼ばれるようになったのかエピソードを交えてご紹介します。

日本三大悪女とは

日本三大悪女として知られている人物、それが日野富子と北条政子、そして淀殿です。この3人の女性は歴史こそ違えど、それぞれ激動の時代を生き抜くために悪女となった人たちです。

1人は金のため、1人は嫉妬による憎悪のため、1人は意固地な自分のため。それぞれが悪女と呼ばれた理由は三者三様です。

日野富子

永享12年(1440)-明応5年5月20日(1496年6月30日)
室町幕府8代将軍足利義政の妻
自分の地位を利用し、私腹を肥やし、庶民から反感を買った金の亡者で守銭奴、銭ゲバ悪女。

北条政子

保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)
鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻
嫉妬心が強く権力志向で自己中悪女

淀殿

永禄12年(1569年)-慶長20年5月8日(1615年6月4日)
豊臣秀吉の側室、父は戦国武将浅井長政、母は織田信長の妹市
不倫をしていた疑惑のある豊臣家を没落に追い込んだ悪女

詳しくは次の項目でエピソードを見ていきましょう!

日本史上最大の悪女と名高い日野富子

日本史上最大の悪女と名高いのが日野富子です。ここからはそんな日野富子とはどういう人物で、なぜ悪女と呼ばれるようになったのかについてご紹介します。

日野富子とは?

日野富子は1440年、室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持つ日野家で誕生した人物です。

16歳で室町幕府第8代将軍である足利義政の正室となるなど、恵まれた境遇にあった人物でもありました。ただ、その人生は1496年に57歳で死去するまで、決して平穏だったとは言えないものだったようです。

応仁の乱の元凶?

日野富子といえば応仁の乱の元凶として語られています。応仁の乱の原因は将軍の跡継ぎ問題が深く関係しているのですが、その背景にいたのが日野富子だったと考えられているのです。

当時、足利義政は子供がいなかったため、出家していた弟の足利義視を呼び戻して将軍の後継者にする予定でした。しかし、その直後に富子が息子の足利義尚を生み、その息子を将軍の後継者にするよう推薦したのです。

その結果、本来の将軍後継者を推す細川勝元一派と息子を将軍後継者として推す山名宗全一派とで対立し、大規模な応仁の乱へと発展してしまいました。

息子を将軍にしたい富子は山名宗全一派に後援を頼み、本来の後継者である義理の弟と対立してしまいます。結果、応仁の乱は非常に長い戦争となってしまいました。

敵にも金を貸し付ける銭ゲバ

富子は応仁の乱の際、全時期を通じて細川勝元を総大将とする東軍側にいたのですが、両軍の大名に多額の金を貸し付けていたことでも知られています。当時は米の投機も行うなど一時期約60億円~70億円もの資産を貯め込んでいたと言われています。

敵側にまで資金を貸し付けたことにより、両軍とも長く戦うことが出来たため、応仁の乱が長引き、多くの人の命を奪う結果になりました。

戦争時などにどちらの軍勢にも兵器などを提供しお金を稼ぐ人を「死の商人」などと呼びますが、応仁の乱での富子は正に「死の商人」と言っても過言ではなかったでしょう。

庶民から徴収した金も懐に

桁外れの守銭奴で度を超えた銭ゲバであり、応仁の乱後、京の出入り口に関所を配置し、そこで関銭を徴収するようにしました。

徴収したお金は内裏の修繕費や諸祭礼の費用に使うためと謳っていましたが、実際にはほとんどが富子の懐に入る仕組みとなっていたそうです。

これには民衆が激怒!一揆を起こし関所を破壊しますが、富子は私財を守る為すぐさま弾圧、関所の再建するという徹底ぶりでした。また、各所から賄賂を受け取っていたとも言われています。

現にその財力は幕府の財政にまで大きな影響を与えました。亡くなる際富子個人の遺産は現在の価値で約70億円ほどあったそうです。

尼将軍と呼ばれた怖い女北条政子

尼将軍として恐れられたのが北条政子です。将軍の妻でありながらも、尼になってからは持ち前のバイタリティで時代を切り開いていきました。

しかし、実はとても嫉妬深い人物だったようです。ここからはそんな北条政子が悪女と呼ばれた理由をご紹介します。

北条政子とは?

北条政子は鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の妻です。伊豆の豪族、北条時政の長女とし生を受けます。

旦那となる源頼朝は、平治の乱の後、流罪を言い渡され伊豆国に送られます。その際に頼朝と政子は恋に落ちて結婚するに至りました。当時では珍しい恋愛結婚だったと言われています。

頼朝の亡き後は尼となりましたが、政子の実家である北条家はもちろん幕府の実権も握るほど才覚に優れた人物でもありました。

超嫉妬深い怖い女

当時珍しい恋愛結婚だったこともあってか、北条政子はその当時の度を越えた嫉妬を源頼朝に向けていました。当時は一夫多妻が当たり前だった時代なので、頼朝は他の女性とも関係を持っていました。

今とは違い当時は当たり前のことで不倫や浮気とは言えないのですが、政子はそのことにとても深い嫉妬心を抱いていたのです。特に亀の前という女性に対しての憎悪は異常でした。

頼朝が亀の前と関係を持ったことを知った政子は憤慨し、義理の祖父である牧宗親に命じ、亀の前を匿っていた伏見広綱の屋敷に追い込みをかけさせ、屋敷ごと破壊するという恐ろしい所業を行いました。その際、伏見広綱は亀の前を連れ命からがら逃走し、事の顛末を頼朝に報告。

この仕業に怒った頼朝は、実行犯の牧宗親を呼びつけ叱責、その場で髷を切り落とす辱めを与えました。その頼朝の所業には政子の父、北条時政が怒り、北条家を鎌倉から伊豆に引き上げる事態へと発展してしまいます。

政子の怒りは収まらず、結局妻の怒りを収める為、頼朝は忠臣の伏見広綱を流刑にする羽目になりました。

上皇を流罪に!?

承久の乱の際に、朝廷と敵対するにあたり、幕府軍には朝廷を敵に回すことへの動揺が広がっていました。

そんな時、政子が御家人たちに向け「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」という演説で御家人の動揺を断ち切り士気を上げ出撃を裁断します。その様は、まさに尼将軍!

敗れた朝廷側の後鳥羽上皇に対しては、隠岐の島への流罪を命じ、更に幕府側の権力、ひいては自身の権力を拡大させました。

非常に有能な人物で、当時の日本を動かすほどの人物でしたが、並外れた嫉妬心や様々な強硬な施策により悪女と言われています。

豊臣家を滅亡させた?淀殿

名家として知られる豊臣家を滅亡させた女性として知られるのが淀殿です。ここからは淀殿がなぜ日本三大悪女の一角を担っているのかについてご紹介します。

淀殿とは?

淀み殿は豊臣秀吉の側室であり、豊臣秀頼の母親です。幼名では茶々と呼ばれており、織田信長の妹であるお市の娘でした。

絶世の美女として知られたお市の娘ということもあり、彼女もまた美人だったと言われています。父親は同じく戦国時代に活躍した大名の浅井長政です。

その恵まれた環境から人生順風満帆だと思われたのですが、本人の時流を読めないやり方は次第に時代に取り残される形となりました。結果的に豊臣家を滅亡に導いたと言われています。

夫である秀吉以外の子を妊娠?

もともと秀吉には多くの側室がいたのですが、子供はいませんでした。しかし、なぜか淀殿だけが妊娠したのです。2人の間には秀頼という子ができたのですが、これがもしかしたら秀吉以外の子ではないかという噂があります。

秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿の側近だった大野治長の子ではないかという説もあり、もし仮にそれが本当だとしたら……相当な悪女と言われても仕方ないかもしれません。

豊臣家を滅亡させた?

淀殿は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家が天下を掴んだという時流を理解しようとせず、過去の栄光にすがって抵抗を続けました。

結果、徳川家康の策略によって豊臣家は滅ぼされることとなったそうです。

徳川の要求に断固反対

徳川家もいきなり滅亡に追い込んだのではなく、数々の要求をのみさえすれば豊臣家を存続させられるよう仕向けていました。しかし、その要求はあまりにも無理があるものでした。

事実、戦国大名として育った秀頼を見て、豊臣家の滅亡を裏で画策していたことは間違いないと言われています。家康の無理な要求に対して淀殿は当然の如く断固拒否しました。その結果、大阪冬の陣と大阪夏の陣、その両戦ともに敗北してしまうことに。

秀頼殺して私も死ぬ!

事実、徳川家の上洛要求に関しては「要求を呑むくらいなら秀頼を殺して私も死ぬ」と主張して突っぱねたという話もあります。無理な要求だったものの、実の息子を殺すという発言は彼女自身を悪女だと思わせるには十分な要素ですよね。

ただ、淀殿に関してはあくまでも伴侶や子供たちのために必死になっていたにすぎないのかもしれません。事実、最後まで豊臣家のことを考え、息子のことを考えて行動していたそうです。

息子を殺す発言も交渉手段の1つとして使っただけなのかもしれません。

徳川家康の策略だった?

淀殿が悪女とされたのは江戸時代の話です。淀殿を悪女に仕立てたのは実は徳川家の策略だったという見方もあります。

世間からの人気も高かった豊臣家を滅ぼしたとなれば、徳川家をよく思わない人々が多く発生するのは当然のことなのですが、この反発を和らげるため、豊臣滅亡の罪を淀殿に負わせるという策略だったのではないかと言われています。

徳川がいろんな条件を出していたのに、結局淀殿が頑固すぎたから豊臣家は没落してしまったのだという印象操作を行ったのです。その為、なるべく淀殿を悪く思わせる必要があったため、「秀頼は秀吉の子ではない」「淀殿は不義理な女だ」というマイナスのイメージを噂で流したのではないかというもの。

真相は分かりませんが、これが策略だとしたら現在まで語り継がれるほどですから、徳川家康の策略の凄さを感じますね。

まとめ

日本には激動の時代に流されながらも、逞しく生きた女性たちがいたのは確かです。日本三大悪女と呼ばれる彼女たちも、激動の時代の中で生きていくのに必死だったのかもしれません。

それでも正真正銘の悪女がいたのも事実です。みなさんも悪女には十分気をつけましょう!(笑)

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