きわめて厳格な教育の事を指す「スパルタ教育」。
子どもが遊ぶことが許されない家庭環境を築いたり、子や生徒に対して気の休まる時間もないほど勉強の詰込みを強要したり、場合によっては体罰を含めることもあります。
このような前時代的ともいえる教育方法をなぜ「スパルタ教育」というのでしょうか?
その由来となった元祖スパルタ教育について見ていきましょう。
目次
スパルタ教育の生まれた時代と場所
日本でいうスパルタ教育の原型は、はるか昔の2200年~2800年ほど前に生まれました。
スパルタは古代ギリシアの都市国家
紀元前のヨーロッパは、ローマ帝国が反映するまで古代ギリシアが台頭していました。
そのギリシアの都市国家(ポリス)のひとつに「スパルタ」という場所がありました。
スパルタはギリシャ共和国のペロポネソス半島南部にかつて存在したポリスで、現在もその勢力中心地だった場所は「スパルティ」という街として存在します。
ただしこの街は19世紀にできたものなので、都市国家であるスパルタとは厳密には関係はありません。
スパルタは強力な軍事都市
スパルタは兵士が強者ぞろいということで知られていた都市国家です。
古代ギリシア軍の主力部隊であり、当時最強の重装歩兵軍でもありました。
スパルタ軍が周辺地域で恐れられていたということが分かる事例が2つあります。
1つは、古代ギリシアの中心地、アテナイと30年と長きにわたる大戦争を繰り広げた結果勝利をおさめ、一時は古代ギリシア世界で覇を唱えたこと。
もう1つは、スパルタには侵略軍が来ていないということです。
紀元前371年、スパルタが衰亡するきっかけでもある「レウクトラの戦い」という戦争で敗けるまで、スパルタが侵略されることは一度もありませんでした。
また、スパルタの街には城壁が無かったと伝わっているので、自分たちの軍の強さに相当な自信があったことがうかがえます。
スパルタのとんでもない兵士教育方法
軍事面で非常に優れたスパルタの兵は常軌を逸した兵士の教育方法にあり、それは正に「スパルタ教育」という内容でした。
古代ギリシア最強の兵を生んだスパルタの身分制度
スパルタは、身分制度のある社会を築いていました。
その身分は、「市民・半自由民・奴隷」です。
奴隷は、スパルタの共有財産とされた非自由身分。
半自由民は自由に移住もできるし、職業選択も認められていましたが、スパルタの市民としては認められていなかった身分です。
この2つの身分にある人物が軍属になることはありません。
では、だれがスパルタの誇る精強な重装歩兵になるのでしょうか?
それは、支配階級にあたる市民の男性です。
子供は国家のもの!
この支配階級の子供は、7歳にして親の元を離され兵士の養成所に入れられます。
市民階級の場合、親に子供を育てる権利は無かったことになります。
食事は不足せず、満腹にもならない量!足りない場合は・・・
支配階級の子供だからといって、育成所に入れられた子供はのびのびと育てられるわけではありません。
食事は決して不足というわけではありませんが、満腹になるほどの量でもなかったと伝わっています。
これには必要最低限の量で育てられた兵士は戦場で食事が減っても耐えられるうえに、いざとなれば欠食でも活動できると考えられたからだそうです。
どうしても食事が足らなくて耐えられなくなった場合は、食べ物を盗むことが許されていました。
しかし許されているとはいえ、現行犯で捕まった場合は鞭打ちの刑が待っていました。
少ない食事で頭が回らなくても、どう動いたらバレることなく実行できるか、大人を出し抜けるかを考えさせることで策士とするのかといった教育目的がここにはあったようです。
衣類も最小限以下しか提供されない
食事が少ないスパルタの育成所ですが、なんと衣服も最小限以下の量しか提供されません。
行軍訓練などの際は、足の裏を鍛えることを目的として裸足で訓練が行われていたといいます。
しかし、裸足での行動は足裏を鍛える以外にも、登り坂や岩の道を靴を履くより容易に登れるようになるうえに、下り坂も指で踏ん張れるので安全に進められるというメリットがあるとされていました。
そして冬は日中に1枚だけ身にまとうことが許されていましたが、夜はその一枚さえ許されないとサれていました。
そう、裸で寝ないといけなかったそうです。
ちなみに現在のギリシャの冬は、東京の冬と温度の違いはそれほどありませんが、雨が多いということなので冷え込む夜も多いようです。
スパルタのあった時代の天候が今と比較するとどうだったかはわかりませんが、裸で過ごすのが決して容易な天候だったようには到底思えませんね。
徹底的に共同生活と上下関係を鍛え上げる!
現在でも「体育会系」と聞くと連帯責任という言葉や、先輩や指導の先生への口ごたえ禁止!というイメージがあると思いますが、スパルタの場合はさらに厳格です。
養成所に入る際に頭を丸刈りにされる他、反抗的な態度を取った場合は鞭打ちが待っていたとされます。
そして、わずか7歳で兵士の養成所に入れられた少年たちは、いくつかのグループに分けられ学習や訓練そして生活までを共にし、二十歳になると職業軍人になることが決められていました。
同期にだって容赦しない!徹底された戦闘訓練
スパルタ兵の強さは、過酷な食事や衣類といった面だけでは生まれません。
強くなるための実践的な戦闘訓練が徹底されていたからこそ、その強さに磨きが掛けられていたのです。
ここからは現在伝わっているものをご紹介します。
非武装戦闘訓練
同じ釜の飯を食う仲である同じグループのメンバーでも手加減が許されず、逃げるのも隠れるのも許されないルール無しの戦闘訓練が行われていました。
逃亡や手抜きが発覚した際は、鞭打ちや飯抜きの罰が待っていたと伝わっています。
女神のための祭事
スパルタでは狩猟の女神「アルテミス」の祭壇の前で1日中鞭に打たれ、誰が一番悲鳴もあげずに絶えることができるかを競う行事がありました。
鞭打ちは大人でもショック死してしまう人もいるという過酷な行為なので、それを耐えるスパルタの少年たちというのがどれだけ肉体面でも精神面でも強かったかがうかがえます。
スパルタが異常な軍事国家になったわけ
なぜスパルタでは、7歳からとかなり早い時期から兵士の養成を行っていたのか。
そこには、スパルタの歪つな社会環境に理由がありました。
スパルタには市民の他に「半自由民・奴隷」がいるというのは前述のとおりです。
この半自由民・奴隷の階級の存在こそがスパルタにとって、常に気にかけないといけない存在となっていました。
半自由民・奴隷もアカイア人と呼ばれる、スパルタ市民となるドーリス人によって征服された民族です。
特に奴隷となったアカイア人は多く、5万人ほどのスパルタ市民に対し15万~25万人もいたといいます。
5倍以上いるアカイアが反乱を起こしたら、数に劣るスパルタ市民はひとたまりもありません。
そのため、市民がみな精強無比な兵となって支配力を誇示する必要があった、ともいわれています。
まとめ
現在では推奨されない「スパルタ教育」という言葉は、元となった古代ギリシアの兵士の育成方法から名付けられました。
厳格化された養成所の中で鍛えられたスパルタの兵は精強無比なのはもちろん、贅沢や怠惰が禁じられていたためスパルタの都市が賄賂などにも縁遠かったそうです。