
九州は、福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の7県を有する巨大な島です。
また九州地方といった場合は、沖縄県が加わり8県になります。
しかし、なぜ7県しかないのに、「九州」というのでしょうか?
実はこの名前には、その昔に九州にあった"国"に由来するのです。
そこでここでは、九州と呼ぶ理由について見ていきましょう。
目次
「九州」は古来日本の律令国に由来する

九州は、北海道、本州、四国と並んで日本列島を構成する島の1つです。
日本列島の中では南西部に位置しています。
この九州という名前は、古来日本の律令国(令制国)の数え方に由来しているのです。
律令国とは
律令国(りつりょうこく)は、令制国(りょうせいこく)とも呼ばれています。
飛鳥時代(592~710年)から明治時代(1868年~1912年)初期まで用いられていた「律令制」に基づいて設置された日本の地方行政区分のことです。
「国」と呼ばれる行政単位であり、九州の地には9つの国が配置されていました。
律令国時代の九州の国名
律令国時代の九州の国名は、全部で9つありました。
筑前国(ちくぜんのくに)
筑前国は現在の福岡県北西部にあたり、筑後国とあわせて「筑州」とも呼ばれています。
筑後国(ちくごのくに)
筑後国は現在の福岡県南西部にあたり、筑前国とあわせて「筑州」とも呼ばれています。
豊前国(ぶぜんのくに)
豊前国は現在の福岡県東部と大分県北部にあたり、豊後国との総称で「豊州」とも呼ばれています。
豊後国(ぶんごのくに)
豊後国は現在の大分県の大部分にあたり、豊前国との総称で「豊州」とも呼ばれています。
肥前国(ひぜんのくに)
肥前国は現在の佐賀県と長崎県(壱岐島と対馬を除く)にあたり、肥後国とあわせて「肥州」とも呼ばれています。
肥後国(ひごのくに)
肥後国は現在の熊本県にあたり、肥前国とあわせて「肥州」とも呼ばれています。
日向国(ひゅうがのくに)
日向国は現在の宮崎県にあたり、「日州」とも呼ばれています。
大隅国(おおすみのくに)
大隅国は現在の鹿児島県の大隅半島と屋久島、種子島、奄美大島にあたり、「隅州」とも呼ばれています。
薩摩国(さつまのくに)
薩摩国は現在の鹿児島県西半部の薩摩半島を中心とした地域にあたり、「薩州」とも呼ばれています。
9つの国があったから九州
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9つの国があったことから、「九州」という名の由来になったのです。
律令国以前は4ヶ国だった九州

律令国以前の古墳時代までの九州の地は、4つの区画に分けられていました。
それぞれの国について見ていきましょう。
筑紫国(つくしのくに)
筑紫国は、律令国でいう筑前国と筑後国にあたります。
現在の行政区分では、福岡県のうち東部を除いた大部分にあたる地域となります。
豊国(とよのくに)
豊国は、律令国でいう豊前国と豊後国にあたります。
現在の行政区分では、福岡県東部および大分県全域にあたる地域です。
肥国(ひのくに)
肥国は、律令国でいう肥前国と肥後国にあたります。
熊本県を「火の国(肥の国)」と呼ぶのは、この肥国に由来します。
熊襲国(くまそのくに)
熊襲国は、現在の九州南部にあたります。
神話や伝説に登場する「熊襲」という朝廷に従っていなかった人々の本拠地でもありました。
現在の鹿児島県霧島市・曽於(そお)市を中心とする地域にあたります。
かつては7県以上あった九州

現在の九州地方は7県ですが、7県以上あった歴史もあります。
廃藩置県当初は30県以上も
明治維新期の1871年(明治4年)7月に行われた廃藩置県で、明治政府はそれまでの藩制度を廃止し、中央管下の府と県に一元化しました。
この廃藩置県が行われた当初は、非常に細かい区分がされていたため九州地方には30以上の県がありました。
第一次統合でも10県以上
1871年(明治4年)10月~11月に行われた第一次府県統合によって、各府県の管轄区域は国や郡を単位とする一円的な領域に再編されました。
この第一次統合によって、九州地方の県は廃藩置県当初に比べると数は減ったものの、それでも10県以上ありました。
第二次統合は5県に!
1876(明治9)年に行われた第二次統合によって、九州地方は福岡県・長崎県・熊本県・大分県・鹿児島県の5県になりました。
現在の7県になったのは1900年の府県制施行後のことです。
九州地方が7県になったのは、120年ほど前のことなんですね。
まとめ

九州地方の「九州」という名前は、昔の律令国時代の国の数に由来するものです。
九州地方は様々な国編成を繰り返し、明治維新後の廃藩置県によって一時は30以上の区分けをされていましたが、統合によって数は減っていきました。
現在の7県の形になったのは1900年に入ってからです。