貞子より怖い?日本三大怨霊とは?日本を変えた凄い怨霊!

日本には貞子を遥かに凌駕する「日本三大怨霊」なるものが存在します。

実際にこの怨霊によって災いがもたらされたこともあるそうで、日本では古くから恐れていたようです。

今回は日本で古くから語られている、日本三大怨霊についてご紹介します。中には日本を震撼させるほどの怨霊もいたそうですよ!

怨霊とは?

怨霊とは、自分が受けた仕打ちに強い恨みを持つ死霊や生霊のことです。その霊の中でも、悪さをする悪霊のことを「怨霊」と呼ぶことが多いですね。

かつての日本では特に未練を晴らそうとする霊を指すことが多く、何かしらの事情があって霊となった存在が災いをもたらしていると信じられてきました。

怨霊は生きている人々に災いをもたらす存在として恐れられ、凄惨な死を遂げた死霊や強い憎しみを持つ生霊などが原因だと考えられています。

現に悪霊は日本でも古くから人々を恐怖に陥れてきた存在と考えられ、その祟りによって歴史が変わってしまったこともあったそうです。

古くは戦死や事故死や自殺など、未練を持ちながら死んでしまった場合は肉体だけが滅びたのだと解釈され、朽ちた肉体から霊魂が抜け出して空中を浮遊していると考えられていました。

これらの霊が浮遊霊となり、怨霊として悪さをすることもあるのだとか。特に恨みや憎しみが強ければ強いほど悪霊へと変貌し、人々に災いをもたらしていたようです。

怨霊のレベルが違う!日本三大怨霊

日本三大怨霊とは、数ある怨霊の中でも日本各地で様々な怪現象を起こしたという伝説が残っている怨霊のことです。

残酷なまでの死を遂げたとされ、古くから災いをもたらす存在として恐れられてきた存在です。そんな日本三大怨霊と呼ばれる人物について簡単にご紹介します。

菅原道真(すがわらのみちざね)


出典:wikipedia.org

菅原道真は自分を陥れた人々に次々と不幸をもたらした怨霊で、現在では学問の神様として崇められているのですが、かつては怨霊として恐れられていたそうです。

平将門(たいらのまさかど)


出典:wikipedia.org

平将門は朝廷との争いによってさらし首となった怨霊で、数々の伝説を残した怨霊です。恐怖の連鎖によって生まれた怨霊には、信じられないような逸話が数多く残っています。

崇徳上皇(すとくじょうこう)


出典:wikipedia.org

崇徳上皇は天皇家に生まれながらも不遇の人生に苛まれた怨霊で、その波乱に満ちた人生は同情すら覚えるほどです。実際に彼の話を聞くと怨霊になっても仕方ないと思えるかもしれません。

元怨霊、現学問の神様「菅原道真」

日本三大怨霊の中でも、「元怨霊」として知られているのが菅原道真です。彼は超天才だったがゆえに人々から嫉妬され、最後には悪霊になってしまいました。

超天才「菅原道真」

菅原家はもともと学問に秀でた天才一族として有名でした。

中でも菅原道真は突出して頭が良く、862年には18歳で文章生と呼ばれる学生となり大学寮へ進むほどでした。

そこから文章生の中でも2名しか選ばれない「文章得業生」に選ばれるなど、超天才として菅原家でも優秀な人物として名を馳せていたのです。

成績優秀者だった菅原道真は次々と出世し、エリートコースまっしぐらです。その活躍もあって、官僚としての未来も約束されたものとなっていきました。

事実、877年には学者としても高い地位を与えられるなど、誰から見ても最高の人生を送っていた人物と言えます。

宮廷内でもその博識さから確固たる地位を確立し、当時では考えられないほど大出世したそうです。

最後は不遇の末

しかし、超優秀で大出世を続けた菅原道真は、当然の如く周りから疎まれる存在となっていきました。

現代でも同じように、やはり成功者というのはどうしても嫉妬の対象となります。

菅原道真も例外ではなく、宮廷内で築いた地位も次第に後ろ盾を失い、最後には孤立してしまいます。

その結果、当時権力争いをしていた藤原時平の策略で陥れられ、大宰府に左遷されて幽閉されてしまいます。

そして、大宰府では十分な食事を与えられず、そのまま命を落とすことになったのです。まさに不遇の末路だったと言えるでしょう。

死後の祟り

菅原道真を陥れた藤原時平が39歳で死去すると、次々と祟りのようなことが立て続けに発生しました。

菅原道真の死後、彼が地位を確立した宮廷内で落雷が発生し、複数の貴族が亡くなってしまうのです。

また、藤原時平の助言を鵜呑みにして菅原道真を幽閉した張本人である後醍醐天皇も病に伏して死去するなど、祟りとしか思えないようなことが起こりました。

これらの一連の事件こそ、怨霊となった菅原道真の仕業だとされ恐れられたのです。そこで祟りを鎮めるため、京都に北野天満宮が建造されました。

その後は祟りも消え、次第に菅原道真は怨霊ではなく学問の神様として崇められるようになった。

首塚が有名「平将門」

日本三大怨霊の中でも数々の伝説が語り継がれているのが、平将門です。

彼も激動の時代にのまれた人物の1人で、その人生はまさに波乱万丈だったと言えるでしょう。

平将門の乱で戦死

平将門は延喜3年~元慶8年の間に生まれたとされる武士です。

当時は朝廷との関係が良好で絶大な力を持っていたとされ、その人生は生まれた時から安泰だったとも言えます。

しかし、朝廷から追われている人物を匿ったことで次第にその関係に亀裂が生じ始め、天慶3年に平将門の乱で討ち取られてしまいました。

それだけならまだしも、討ち取られた平将門は首を切られ、さらし首にされてしまったのです。

さらし首が大変なことに!

そんな平将門のさらし首には数々の逸話が言い伝えられています。以下がその主なものです。

・何ヶ月も目を閉じなかった
・夜な夜な叫んでいた
・歯ぎしりをしていた
・首だけで関東まで飛んで帰った
・落ちた場所に首塚が建てられた

まさに一言で言えば化け物ですよね。妖怪の類と思ってしまうような逸話が方々で語られ、彼は日本を代表とする怨霊として知られるようになりました。

首塚の祟り

事実、彼のさらし首は宙を舞い、京都から関東を目指して飛び去り、東京都千代田区大手町に落ちたといわれており、首塚が建てられたほどです。

現在でも残っているので、興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

妖怪となったとされる「崇徳院」

日本三大怨霊の最後は、崇徳院という人物です。彼もまた時代に翻弄され、不運の人生を送った人物の1つと言えます。

幼くして天皇に

崇徳院は、鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として誕生しました。

生まれた年に親王宣下を受け、2年後には皇太子となり、さらに3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位した人物です。

しかし、鳥羽上皇は他の女性を寵愛しており、その子どもである躰仁親王を天皇に即位させたいと考えていたようで、どうにも崇徳院が天皇として即位したことに納得できないでいました。

そんな中、崇徳天皇は上皇となり、崇徳院と呼ばれ始めます。この頃から、周囲で怪しい動きが目立つようになったそうです。

讃岐に流され京に戻れず無念の死

最終的に崇徳院は激化する後継者争いで国を追われ、讃岐に流されてしまいました。

そこで反乱を企てているという噂を流され、結果的に幽閉されて軟禁生活を強いられることになったそうです。

そのまま彼は最期まで京都に帰ることができず、無念のままに亡くなってしまいました。

日本を揺るがす祟り

権力争いによって不遇の人生を歩まされた崇徳院の死後、延歴寺の強訴や安元の大火や鹿ケ谷の陰謀など、日本を揺るがす大事件が連発します。

この一連の事件は崇徳院の祟りによるものだと言われ、彼は怨霊として広く知られるようになったそうです。

まとめ

怨霊という存在を信じるか信じないかは個人の自由ですが、日本には「三大怨霊」と呼ばれる人物が存在します。

どの人物も不運な最期を遂げ、この世に未練を持ったまま命を落とした人たちです。

今でもこれらの怨霊に関する首塚を始め、ゆかりの地などもあるので気になる方は訪れてみてください。

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出典:Wikipedia(菅原道真) / Wikipedia(平将門) / Wikipedia(崇徳天皇)

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