明智光秀の娘「細川ガラシャ」、その数奇な運命をたどった人生

織田信長の重臣にして、本能寺の変でその織田信長を討った明智光秀。
彼の娘の一人に「細川ガラシャ」と呼ばれる人物がいます。
ガラシャというのは、後にキリスト教の洗礼を受けた名前なのですが、彼女の人生は運命に翻弄されたともいえる人生でした。

細川ガラシャの人生

明智光秀の三女として生まれた細川ガラシャ。
父は織田家の重臣でしたので、何事も無ければ順風満帆な人生を送ることができたのでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。

本能寺の変まで

細川ガラシャは、1563(永禄6)年に、当時は越前朝倉家に仕えていたとされる明智光秀の3女として生を受けました。
何月何日生まれかは現在のところ判明していません。
ちなみに、ガラシャというのは後年、キリスト教の洗礼を受けた際の名前で、生まれた際は「玉」や「珠」、「玉子」という名前が付けられたとされています。

当時は数え年で、新年正月に加齢計算されていたのでこのような考えはなかったかもしれませんが、後に結婚する細川忠興が同年11月生まれなので、もしかしたらガラシャの方が若干お姉さんだった可能性はあります。

ガラシャが生まれた後、父・明智光秀は朝倉家を離れ、足利将軍家に仕えるようになります。
そして、足利義昭が自らの将軍擁立のため織田家に働くよう呼びかける交渉の際には、仲介役を果たしています。
ガラシャの婚姻相手である細川忠興の父「細川藤孝(幽斎)」と明智光秀が出会ったのは、この足利将軍家に仕えるようになった頃とされます。
細川家は代々足利将軍家に仕える家柄であり、細川藤孝もまた先代の「足利義輝」の頃から足利将軍家に仕えていました。

後に、足利将軍家と織田家の仲が険悪になると、明智光秀も細川藤孝も織田家を選び、織田家に仕えるようになります。
父・明智光秀は織田家に仕えるとその才能をいかんなく発揮、「金ヶ崎の戦い」ではしんがりを務め、「比叡山焼き討ち」では実行部隊の中心的役割を担っています。
この比叡山攻めの後は、近江国滋賀郡5万石を与えられると共に、坂本城を築いています。

その後も数々の活躍をし、織田家に無くてはならない存在となった明智光秀。
1578(天正6)年8月、そんな彼の三女であるガラシャと、同年に元服したばかりの細川家の嫡男「細川忠興」の婚姻が織田信長の仲介で執り行われました。
翌年には長女が、その翌年には長男を出産しています。

細川家の方も順調に織田家で出世しており、1580(天正8)年8月には丹後12万石が与えられています。
しかし、明智家とガラシャにとって順風満帆だったのは2年後までです。
そう1582(天正10)年6月に、明智光秀は本能寺の変で主君・織田信長・信忠親子を討ってしまいます。

キリシタンになる

本能寺の変の後、明智光秀は細川父子に協力を求めます。
この時、細川父子が明智光秀に力を貸していたらその後のガラシャの運命は大きく変わっていたかもしれません。

しかし、実際には細川父子は明智光秀の陣営に付きませんでした。
むしろ、2人して織田信長を弔う旨を発し出家してしまいました。
これは一種の明智光秀への非難ともとられます。

明智光秀の盟友とされた細川藤孝と、義理の子である細川忠興のこの行動もあってか、その後の明智光秀側は状況がよくならず、「天王山の戦い」で豊臣秀吉に敗北してしまいます。

この時、細川父子は明智光秀との仲を断絶することになります。
そのため、細川忠興とガラシャは離縁するというのがこの時代の常識なのですが、なぜか細川忠興はガラシャを手放しませんでした。
しかし、ガラシャを表立って出すこともできなかったようで、これ以降ガラシャは細川家の屋敷に閉じ込められることになります。

キリスト教徒になるのはこの幽閉期間です。
屋敷から出ることはができなくなったガラシャは、ある時キリシタン大名の「高山右近」が話していたというキリスト教の教えを耳にします。
これに非常に関心を抱いたガラシャはちょうど細川忠興が九州征伐のため、遠く離れた九州に行っている間の1587(天正15)年に洗礼を受けます。

ガラシャという名前が使われるのは、これ以降という事になります。

非業な最期

九州征伐後、細川忠興は小田原攻めにも参加し、豊臣家で活躍していきます。
しかし、豊臣秀吉が亡くなって間もなく大事件が勃発します。

1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」です。
この天下分け目の大戦が始まる直前、石田三成は大阪城周辺にいた大名の妻子を人質としようとしました。

もちろん、ガラシャのいる細川家もその対象となりました。
しかし、ガラシャはこの要求を突っぱねます。
そして、細川忠興が日頃より言っていた「自分が不在の折に、妻の尊厳に危機があった際は、まず妻を殺め、その後家臣は皆切腹して妻の後を追うように、これが旧来の風習である」という言葉に従い、人質とならず死を選びました。

辞世の句は「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記しています。

このガラシャの死は石田三成にとって想定外だったこともあり、人質作戦はそれ以上進められなかったとされます。

熱心なキリスト教徒だったガラシャ

幽閉期間にキリスト教徒となったガラシャは、非常に敬虔だったとされます。

ガラシャという名前の意味

本名よりもよほど世間的に知られた名前、「細川ガラシャ」。
このガラシャは、洗礼の際に授けられた名前です。

スペルは「Gratia」で、その意味は恩寵・神の恵みとなります。

忠興による棄教の説得を拒み続ける

ガラシャが洗礼を受けた1587(天正15)年というのは、実は豊臣秀吉による「バテレン追放令」が出た年です。
国がキリスト教を禁じるというのはガラシャも理解していたようで、実際に洗礼を受けたのは宣教師たちが日本を去るため九州に向かう直前の事でした。

細川忠興が帰ってくるとガラシャが洗礼を受けたことを知り、バテレン追放令の事もあり棄教するよう説得を続けます。
しかし、ガラシャの意思が曲がることは無く、決して説得に応じることはありませんでした。
ガラシャの熱意を悟った細川忠興は結局、黙認という形を取ります。

死の間際までキリスト教の教えに殉ずる

関ヶ原の戦い直前に、人質になることを拒み命を散らせたガラシャ。
この際も決してキリスト教の教えには反さないようにしていました。

キリスト教では自殺は禁じられていたことから、家臣の一人に命じて自らを薙刀で介錯させ、自身の遺体が残らないよう屋敷に火を放たせました。

キリスト教の教えで性格が変わった

ガラシャは元々、気が強く、気位の高い女性だったとされる逸話が残っている人物です。
しかし、キリスト教の教えを受けて以降は、穏やかな態度を取り、辛抱強い人物になったともいわれています。

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