細川忠興、戦国武将一「愛の偏った男」の正室ガラシャへの異常な執着

戦国武将の「細川忠興(ほそかわ ただおき)」という人物を、皆さんはご存じでしょうか?
熊本の方は肥後熊本藩の礎を築いた人物なのでご存じと思われますが、同世代にあたる伊達政宗や真田幸村に比べると一般的な認知度が少し低いかもしれません。
ところが、この細川忠興という人物、数多くの戦国武将がいる中で最もといっていいほど偏った愛情を持った人物です。
その対象となったのは、正室である「細川ガラシャ」です。

どのように愛が偏っていたのか、それらがわかる逸話を細川忠興の来歴と併せてご紹介します。

戦国武将「細川忠興」

 

細川忠興は、主君を織田信長の嫡男織田信忠・豊臣秀吉・徳川家康と変えました。
最終的には、細川家が肥後隈本藩54万石という大大名になる礎を築いた人物です。

織田家の家臣

細川家はもともと室町将軍の足利家に仕える家柄でした。
父「細川藤孝(ほそかわ ふじたか)」の代からは、織田家に仕えるようになります。
細川藤孝が織田信長に仕えたのに対し、息子の細川忠興は織田信長の嫡男である「織田信忠」に仕えることになりました。

細川忠興が織田家に仕えるようになったのは元服前、「熊千代」と名乗っていたころからです。
織田家に仕えた細川忠興は、なんと元服前の15歳の時に初陣を飾ると、同年中に織田信長を裏切った「松永久秀」という人物の配下の籠る城を落とす戦に参加します。
そこでよほどの活躍をしたのでしょう、織田信長直筆の感状(配下の手柄をほめたたえる内容をしたためた書付け)を与えられています。

以後、細川忠興は生涯を通じて武功派の武将として活躍していきます。

転機となる本能寺の変

父・細川藤孝と本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は昵懇の仲でした。
その仲は息子の細川忠興と明智光秀の娘、お玉を婚姻させるほどです。

しかし、その強く結ばれていた絆が破綻してしまったのが明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」です。
この本能寺の変後、明智光秀は細川家に助力を求めましたが、細川家がその願いに応じることはありませんでした。
むしろ父子揃って剃髪することで織田信長のために喪に服すことを表明したので、実質的には明智光秀の行動を不支持、ないしは間接的に非難した行動をとりました。
この細川父子の行動もあってか、明智光秀は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に敗北し、短い天下人人生に幕を下ろすことになりました。

明智光秀にとっては手痛いたかった細川父子の行動は、逆に豊臣秀吉にとってはどんな助力よりもありがたかったのでしょう。
以後、豊臣秀吉の配下として細川家は重用されるようになります。

その後の細川忠興は、1584(天正12)年に起きた豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合の戦い、「小牧・長久手の戦い」に参加すると、翌年には褒美として羽柴の姓を賜ります。
さらに1587(天正15)年の九州征伐に参加した翌年には、豊臣姓を下賜されています。

関ヶ原の戦い

天下分け目の大戦として知られる「関ヶ原の戦い」に、細川忠興は東軍、すなわち徳川家康方として参戦しています。
これにはいくつかの理由が考えられます。

まず一つ、細川忠興をはじめ、武断派といわれる豊臣家の武将は西軍の中心人物である石田三成を嫌悪していたとされることが理由としてあげられます。
これは文禄・慶長の役と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮出兵に因縁があります。

この朝鮮出兵では細川忠興たち武断派は現地に赴き合戦に打ち込んでいた一方、石田三成のような官僚組は日本国内から兵糧の采配など手配を行っていました。
ここで前線部隊と後方支援部隊の仲がこじれる事態がいくつも重なってしまったのです。
本部と現場がそれぞれの視点で動くことからいがみ合う、というのは現代でもよく聞きますが、戦国時代にもやはりこういったいざこざはあったようです。
結果、同じ豊臣秀吉に古くから仕える人物たちだったからこそか、その仲はこじれにこじれ、武断派の武将が石田三成側として参戦することなどありえない状況になっていたのです。

もう一つは、細川忠興が徳川家康に大きな借りがあったという点です。
その借りとは豊臣秀吉の後継者問題が起きた際に発生しました。

豊臣秀吉の後継者というと一般的に息子の「豊臣秀頼」を想像すると思いますが、豊臣秀頼誕生前、後継者と目された人物が実際にはいました。
その人物は「羽柴秀次(はしばひでつぐ)」。
豊臣秀吉の甥にして、一時は貴族のトップにあたる関白職に就任した人物です。

一時は、この羽柴秀次が豊臣秀吉の後継者とされていました。
しかしそれは、豊臣秀吉に息子がいなかったのが理由。
豊臣秀吉に子供ができてしまえば話は変わります。

実際、豊臣秀吉に子ができると羽柴秀次の立場は一転。
息子の将来を邪魔する人物として、羽柴秀次は豊臣秀吉に睨まれる立場になり、最終的には切腹するにまで追い込まれてしまうのでした。

この後継者予定の切腹事件の影響は、諸大名にとっても衝撃的でした。
なにせ跡を継ぐ人物だと考えていましたので、近しい仲になろうとそばに寄って親交を深めたり、経済的援助を羽柴秀次から受けたりしていた大名もいました。

もちろん細川忠興もそうです。
羽柴秀次から経済援助、すなわち借金をしていました。
この借金が仲の良さの証、と豊臣秀吉から疑われるのですが、これを回避できたのは徳川家康がいたからです。

この時、徳川家康は細川忠興の代わりに借金の返済金を用立ててくれました。
それもあって、羽柴秀次との縁切りを確かなものにでき、細川家は存続に成功したのです。
違う視点で見ると、お家の大事を回避してくれた徳川家康に対してこの時大きな借りができたということです。

最後にもう一つ、細川忠興の私情により石田三成を許せない理由が関ヶ原の戦いに際して発生するのですが、そちらは後述します。

関ヶ原の戦い後も、細川忠興と徳川家の親交は続きます。
関ヶ原の戦いでの功績により丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に加増と国替が決まると、細川忠興は他の領地と併せて39万9,000石の大名になります。
そして大阪の陣にも参加、その後1620(元和6)年に隠居します。
細川家が肥後隈本藩に移封を伴う加増されるのは更に12年後の1632(寛永9)年の事なので、初代藩主ではありませんが、細川家が54万石の大名のなったのは細川忠興のこれまでの功績があったからといって差し支えありません。

文化人としても活躍した細川忠興

 

武人として活躍した細川忠興ですが、実は文化人としての功績も大きいです。

千利休の弟子として

細川忠興は茶の名人・千利休の弟子です。
しかもただの弟子ではなく、かなりお気に入りだったようで「利休七哲」と呼ばれる高弟7人のひとりに数えられています。

文化的教養に精通

細川忠興は茶の湯以外にも、和歌や能楽、絵画にも非常に造詣が深い人物でした。
他には親交の厚かった徳川家康の影響もあって医学にも通じていました。

もともと、父の細川藤孝も当代随一の教養人といわれていました。
和歌や茶の湯・連歌・蹴鞠から囲碁や料理まで修めていたほか、剣術なども武芸百般だったといわれています。
その血を継いだ細川忠興もまた並大抵ではない教養を身につけていたのです。

妻への愛が異常に重い細川忠興

 

ここまで細川忠興の来歴などをご紹介してきました。
まとめると、足利将軍家に仕える名家出身で文武両道、社交性も非常に高いという非の打ち所の無い人物のように見えます。
ところが、どうも明智光秀の娘である正室への愛が深い、それどころか重いと表現して差し支えの無い逸話が伝わっていますのでご紹介します。

細川忠興の正室

細川忠興の正室は、明智光秀の娘・玉子です。
洗礼名による細川ガラシャという名前の方が有名かもしれません。
ここからは有名なガラシャの名前で話を進めさせてもらいます。

石田三成を許せなくなったガラシャの最期

関ヶ原の戦いの際、石田三成が細川ガラシャを人質に取ろうと、大坂玉造にあった細川屋敷を兵を使い取り囲みました。
この石田三成の行動に対して細川ガラシャは人質となることを拒み、自身が死ぬことを選択します。

洗礼している、といったように細川ガラシャはキリスト教徒です。
自殺はキリスト教で禁じられていることから、この時細川ガラシャは細川家の家老に介錯を頼んだとされています。

こうして細川ガラシャは命を閉じるのですが、愛妻家だった細川忠興はもともといい感情を抱いていなかった石田三成に一層憎しみを覚えたといいます。
これが細川忠興が東軍に付いた最後の理由ともいわれています。

明智家とは縁を切ってもガラシャは手放さない

凄惨な最期となった細川ガラシャ、彼女に対して細川忠興は異常ともいえる執着を見せています。

本能寺の変の際、細川父子が明智光秀に助力しなかったというのは前述のとおりです。
この時、既に細川忠興は細川ガラシャ(当時は玉子)と結婚していました。
一方的にこれまでの家同士の関係を立つのですから、もう明智家と関りはないよというのを明確にするため普通は離縁するものなのですが、細川忠興は違いました。
ガラシャを屋敷内から出ないように幽閉し、人目に付かないようにすること累が及ぶことを防ぐとともに匿う事に成功しました。

ちなみにガラシャがキリスト教に帰依したのは、本能寺の変の後、幽閉期間に細川忠興が九州征伐に出て留守にしている間のことだったとされます。

妻を見ることも許さない?

前述の九州征伐の際、自分は屋敷にいれなくなりましたが、屋敷の監視の目は一層厳しくなり、ガラシャに伝言を誰かが伝えることさえ禁止していたとされます。
特に、ガラシャが自分以外のものの視界に入るのを以上に嫌ったとされています。
そのため、オスネコが近寄るのさえ嫌がったとか。

そして一層ひどい仕打ちとされる逸話も残っています。
ある時、ある庭師が細川家の屋敷の庭の手入れをしていました。

すると、屋敷内にいたガラシャの事が視界に入りました。
これを見かけた細川忠興は激怒します。
庭師がガラシャを邪な目で見たと思い込んだのです。
そして、庭師を問い詰めることも無く問答無用で手打ちにしてしまいました。

この切り捨てられた庭師の首を、何を思ったかガラシャに見せつけますが、ガラシャは特に動じることもありませんでした。
顔色一つ変えないガラシャを見て、細川忠興は「ヘビのように冷たい女」と言い放ちました。
その言葉を聞いたガラシャは「鬼に妻にはちょうどいいでしょう」と言い返したのだとか。

屋敷に住んでいる人間が、屋敷にいるのは当然ですし、庭師お視界に屋敷内の人物が目に入るのは当たり前のことです。
それを難癖も付けず、問答無用で切りかかる細川忠興は相当なものです。
対して、自分も悪くないとはいえ、屋敷内で夫が人を切り捨てたと思ったら自分の前にその首を持ってくる様子を冷ややかに見れるガラシャ側もなかなかなものを感じますが・・・。

実はガラシャを愛してはいなかった?

細川忠興は、ガラシャに対して異常なほど偏った愛を抱いていたともされます。
しかし、執着はしていても、特に愛していなかったのでは?ともいわれることがあります。

例えば、先ほどの庭師に関する逸話ですが、その中で「ヘビのように冷たい女」とガラシャの事を評しています。
また、九州征伐後から細川忠興はガラシャに対して急に側室を取ると言い出し、実際に側室を迎えます。
これは、一夫一妻制のキリスト教の教えに反する行為なので、知らぬ間に洗礼を受けたガラシャへの嫌がらせともされています。

まとめ

細川忠興は、順風満帆な人生を送ったといっても過言のない人物です。
織田家・豊臣家・徳川家の家臣として重用され、大大名となっています。
文化面でも、千利休の高弟と認められるうえ、当代きっての文化人であった父を持ったこともあってか和歌などの教養もかなりのものがありました。

来歴だけ見ると非常に優れた人物のように見えますが、正室細川ガラシャにだけは、異常ともいえる執着を見せていました。
それは、他の男性の視界に彼女が入ることも許さないほどというのですから恐ろしいものです。

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