細川幽斎こと細川藤孝、戦国時代一の文化人と言われるだけあって、その才能が恵まれすぎている!

100年余りにも及んだ戦国時代。
その長い歴史の中には多くの武将や大名が活躍しました。
この戦国武将や戦国大名と呼ばれる人物たちの中で最高の文化人とも、当代随一の教養人ともいわれるのが、「細川幽斎」こと「細川藤孝」です。

では、この細川藤孝がどのような人物であったのか、どれだけ教養深い文化人だったのかをご紹介していきます。

細川藤孝とは

細川藤孝は、戦国時代末期に活躍した人物です。
室町幕府の幕臣として仕えた後は織田家に仕え、嫡男に家督を譲った後も顔の広さなどから豊臣家そして徳川家で重用されています。

戦国武将としての細川藤孝

細川藤孝は、織田信長と同じ1534(天文3)年に、室町幕府に仕える「三淵晴員」の次男として生まれました。
7歳の時に伯父にあたる「細川元常」、もしくは淡路守護家の「細川晴広」の養子となりました。

1546(天文15)年、後に室町幕府の13代将軍「足利義輝」となる「足利義藤」から名前の一字を授かる偏諱を受け、「細川藤孝」と名乗るようになります。
名前を授かった足利義輝に仕える幕臣となりましたが、足利義輝は京都二条御所で三好三人衆による襲撃を受けた「永禄の変」で命を落としてしまいます。

主君を失った後は、足利義輝の弟「足利義昭」の擁立を実現すべく動くのですが、後に仕えるようになる織田信長とはこの活動の中で出会っています。
一時は足利義昭と織田信長の2つに同時に仕える両属状態だったのですが、両者が険悪な状況になると織田家に仕えるようになります。
足利義昭が京都を追放されると、それに併せて名字を変え、「長岡藤孝」と改めています。

足利義昭に共に仕えた明智光秀とは非常に親交が深く、息子の「細川忠興」と明智光秀の娘「玉子」こと「細川ガラシャ」は織田信長を仲介人として婚姻を結んでいます。

細川幽斎は本能寺の変後の名前

親しくしていた明智光秀が起こした「本能寺の変」の直後、明智光秀は細川藤孝に協力を求めています。
長い付き合いと、子供同士が結婚している縁から明智光秀的には仲間になってくれると考えていたかもしれませんがそうはなりませんでした。
細川藤孝は、息子の忠興と共に織田信長の菩提を弔うとして出家してしまいました。
これは暗に主君を討った明智光秀を批判していたものともされています。
「幽斎」という名前は、この時号した名前となります。

この細川父子の行動もあってか、明智光秀を支持する武将は少なく、天王山の戦いで後の「豊臣秀吉」こと羽柴秀吉に負けてしまいます。
逆に言うと、勝利をつかんだ豊臣秀吉にとって、公家などとも交流のある細川藤孝が味方しなかったのは非常にありがたかったのか、細川藤孝自身は家督を譲っていたのですが、豊臣政権下では重用されるようになります。

しかし、豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に参加、関ヶ原では戦っていませんが自身で築城した田辺城で戦いを繰り広げています。
この時、西軍は細川藤孝の守る田辺城を15,000の兵で包囲しましたが、たいして田辺城には500人程度しか兵はいませんでした。

圧倒的な兵差でしたが朝廷による講和が入るまで徹底抗戦を広げ続けました。
この講和が決定したのは関ヶ原の戦いの2日前だったこともあり、田辺城を攻めていた15,000の兵は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。
細川藤孝の粘りが関ヶ原の戦いの結果を変えたのかもしれません。

関ヶ原の戦いの後、かつて仕えた足利義昭が京都から追放されて以来名乗っていた「長岡姓」から「細川姓」に戻し、本格的な隠居生活に入ります。
そして1610(慶長15)年に京都三条車屋町に構えていた自宅で亡くなりました。

細川藤孝は一流の文化人

室町幕府や織田信長などに仕え、戦国武将として名声を築いた細川藤孝ですが、当時一流の風流人であり文化人でもありました。

和歌に茶の湯に何でもござれ

細川藤孝が教養として修めていたものとしては、和歌や連歌、茶道をはじめ、武家・貴族のたしなみとされていた蹴鞠などがあります。
また、能楽(当時は猿楽)や囲碁についても深い造詣があったとされています。

500対15000という圧倒的な兵差で迎えた関ヶ原の戦いの前哨戦ともされる「田辺城の戦い」では、当時の天皇「後陽成天皇」や「八条宮智仁親王」が講和に向けて積極的に動いています。
これは、細川藤孝が「古今伝授」というものを受けていたからです。

この古今伝授とは、古今和歌集の秘伝とされるの解釈です。
関ヶ原の戦い当時、古今伝授を受けていたのは細川藤孝のみとされています。
細川藤孝が、もし戦死してしまったら古今伝授を失う事を恐れたからとされています。

武術も超一流

文化面の教養だけではありません。
伝説の剣豪とされる「塚原卜伝」に剣を教わっています。
そして弓術は日置流、弓術と馬術を組み合わせた武田流の印可を授かっています。
また相撲も得意で、ある時京都を歩いている際に暴れ牛を投げ飛ばしたという逸話も残っています。

まとめ

細川藤孝は、室町幕府の将軍・足利義輝に仕えた後、足利義昭を擁立するため織田信長に近付き、その後織田信長に仕えるようになります。
親交の深い明智光秀が起こした本能寺の変の後は、明智光秀に味方することは無く出家してしまいます。
幽斎という別名は、出家した際の名前となります。
その後も豊臣秀吉や徳川家康に重用され、関ヶ原の戦いに際しては、500ばかりの兵しかいない自身の城で15,000の兵を迎え撃っています。
剣術や弓術、馬術についても一流の腕前だったとされています。

戦国武将としても華々しい活躍をしていますが、文化人としての一面もあります。
当代きっての教養人ともいわれるだけでなく、一時は唯一「古今伝授」というものを受けていた人物でもあります。
この古今伝授とは、古今和歌集の秘伝とされる解釈です。

文武を極めた人物と言って過言ではありません。

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