「群盲象を評す」とはどんな意味の言葉?動物のゾウがどう関係するの?

凡人では、大人物や大事業のことは一部しか理解できない、という趣旨をあらわす「群盲象を評す」。
この言葉は、インドの寓話から生まれたとされています。

ここでは、この「群盲象を評す」という言葉について、その意味や成り立ちについて見ていきましょう。

「群盲象を評す」の由来

まずは「群盲象を評す」がどのようにして生まれた言葉なのか、その由来を見ていきましょう。

インドに伝わる寓話から

「群盲象を評す」は、インドに伝わる寓話から生まれたとされています。

その昔、インドに6人の目が見えない人たちがいました。
この人たちにゾウを触れた時、その感触を壁や扇、木の枝などと思い思いに例えました。
しかし、お互いの感想が大きく異なるので、お互いに反目し合いました。

とはいえ、感想が違ったのは仕方がない話だったのです。
なぜなら、この人達はゾウの鼻や耳、腹部などそれぞれが違う場所を触れていたのですから。

しかし、その様子を見ていた人などから、それぞれが違う場所を触れていたので感想が違うのだということを指摘されたことで、この対立は解消しましたという話になっています。

仏教の経典にも登場する

「群盲象を評す」にまつわるこの寓話は、インド発ということもあってインドを発祥の地とする仏教の中でも使用されています。
たとえば、長阿含経、大樓炭経、起世経、大般涅槃経、華厳経といった経典に描写されており、真理を知るためにも仏教の教えが必要だと結論付けています。

アメリカ・ヨーロッパ社会にも伝わっている

インドの目の見えない人たちとゾウを触った感想にまつわる「群盲象を評す」の寓話は、世界中で知られています。
そのきっかけは、19世紀のアメリカの詩人ジョン・ゴッドフリー・サックスが1872年に発表した詩「The Blind Men and the Elephant」で、その内容は前述の物語と大きく変わっていません。

この詩では、この物語を他の人の意見が理解できていない進学論者に似ていると結論付けた趣旨となっています。

日本における「群盲象を評す」とは

 

では、日本ではどういった解釈で「群盲象を評す」が理解されているのでしょうか。
その意味について見ていきましょう。

「群盲象を評す」の日本での意味

「群盲象を評す」は、視野が狭い人や凡人には、大人物や大事業の一部しか理解できないという意味で用いられます。
凡人は大局から物事を判断することができないという意味でも使用されます。

他の言葉と混合された意味でも用いられる

 

「群盲象を評す」は、他の言葉と混合されることもあります。

「木を見て森を見ず」と混合された用い方

「群盲象を評す」は、しばしば「木を見て森を見ず」と混合されることがあります。

「木を見て森を見ず」は、一部だけを見て全体を見ないという意味で使用される言葉です。
物事や人物の一部や一面だけを切り取って見ただけなのに、すべて理解したと錯覚してしまうことをあらわしています。

「群盲象を評す」は、それぞれが知り得る情報から自分の意見を主張して対立するというニュアンスが含まれる言葉となっていますので、完全に一致する意味合いの言葉ではありません。

「生合点」と混合されることも

「生合点」とは、いい加減に了解することを意味します。
よくわかってもいやしないのに、わかったつもりになることをあらわす言葉です。

まとめ

「群盲象を評す」は、視野が狭い人や凡人には、大人物や大事業の一部しか理解できないという意味です。
この言葉は、インドに古くから伝わる物語から生まれた言葉となっています。

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