「瓜の蔓に茄子はならぬ」とはどんな意味の言葉?その類義語や対義語は?

平凡な親からは平凡な子供しか生まれてこないことをあらわすことわざに「瓜の蔓に茄子はならぬ」というものがあります。
これは、子供は親に似るものだという意味もあります。
では、なぜそれらの意味合いが「瓜の蔓に茄子はならぬ」と表現されるようになったのでしょうか?

ここでは、この「瓜の蔓に茄子はならぬ」についてその意味はもちろん由来について見ていきましょう。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」とは

 

まずは「瓜の蔓に茄子はならぬ」の意味について見ていきましょう。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の意味

「瓜の蔓に茄子はならぬ」ということわざは、子供は親に似るものだということの例えとなっています。
平凡な親から非凡な子供は生まれてこないということをあらわすこともあり、血は争えないという意味合いも含まれています。

瓜の蔓(ツル)の先に茄子が実ることがありません。
瓜の蔓に実るのは、当然ですが瓜の実です。

この当然の理由から、生まれたのが「瓜の蔓に茄子はならぬ」ということわざとなっています。

褒める目的では使わないので注意!

「瓜の蔓に茄子はならぬ」は、褒め言葉としては使用されません。

似たもの親子という意味あいで使用できるようにも思われますが、実際には凡人の子供は平凡という意味合いで用いられます。
普通であるというよりも、優れていないと揶揄した言い回しになりますので、ネガティブな言葉ということになります。

そっくりな親子だね、と伝えようとして使おうとしては決していけないということになります。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の類義語

 

ここからは「瓜の蔓に茄子はならぬ」の類義語となる言葉を見てみましょう。
類義語としては、「蛙の子は蛙」「燕雀鳳を生まず」「子は親を映す鏡」などが挙げられます。

蛙の子は蛙

「蛙の子は蛙」とは、子供は成長してくるに従って親に似てくるという意味合いがあります。

子供の頃は親に似ていなかったり、興味があるものが大きく異なっていても成長するに伴って考え方や行動などにて通ったものが出てきます。
中には、親と同じ道を歩むことになる子供いることでしょう。

このように、最初は似ていなかった親子が時間の経過により似てくることに対して用います。
また、平凡な親からは麒麟児といわれるような子供が生まれるようなことはなく、似たように凡人となる子が生まれるという「瓜の蔓に茄子はならぬ」と全く同じ意味で用いられることもあります。

燕雀鳳を生まず

「燕雀鳳を生まず」には、平凡な親から非凡な子供が生まれることはないという意味です。

ツバメやスズメが産む卵は当然ツバメやスズメそれぞれの卵です。
中国に伝わる伝説の鳥である鳳凰の卵を生みことはありません。

このツバメやスズメを平凡な存在、鳳凰を非凡な存在として例えたのが「燕雀鳳を生まず」となります。

子は親を映す鏡

「子は親を映す鏡」とは、子供は親から多大な影響を受けることの例えです。
「子は親の鏡」と表現されることもあります。

子供の振る舞いを見れば、親の品や質が窺い知れるという訓戒や教訓としての意味合いで用いられることもあります。

「瓜の蔓に茄子はならぬ」の対義語

 

最後に「瓜の蔓に茄子はならぬ」の対義語も見てみましょう。
対義語としては、「鳶が鷹を生む」「瓢箪から駒」などが挙げられます。

鳶が鷹を生む

「鳶が鷹を生む」とは、親が平凡ながら子供はとても優秀であることを例えています。

鳶(トンビ)は、動物の死骸や小動物を捕食する鳥で、ハンターとしての能力はそこまで高くありません。
それに対して、鷹は非常に優れたハンターです。

親子とは思えないほどの優れた子供と至って平凡な親を対比して用いられます。
親が自分のことを謙遜しつつも、子供のことを褒めるために使用されることもあります。

瓢箪から駒

「瓢箪から駒」とは、意外なところから想定外なものが出ることの例えです。
予測できるような因果関係ではなく、まったく予測不可能なことを言います。

冗談半分で発言したことが実現してしまう様子に対しても用いられます。

瓢箪のような小さいものから、馬のように大きなものが出てくることは本来ありません。
そんなありえないことが実際に起きたことに対して用いられる言葉となっています。

まとめ

「瓜の蔓に茄子はならぬ」は、平凡な親から非凡が子供が生まれくることはない、という意味合いのことわざです。
子供は親に似るものだという意味がありますが、この言葉は決して褒め言葉になることはありません。

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