真田幸村の名言!大坂の陣での名言が少年漫画の主人公そのもの!!

真田幸村は昔から人気のある戦国武将のひとり。
徳川家康を倒そうと戦いに挑むその姿はマンガや小説、ドラマに映画そしてゲームと様々な形式で物語られています。

「日本一の兵(つわもの)」と称される真田幸村が発した名言の中でも特に有名な合戦、「大坂の陣」の前後で発したとされるものが主人公そのものでした。
真田幸村の人生がどのようなものだったか、そして名言はどの状況でいわれたものかの解説を含めてご紹介します!

真田幸村

 

実は「真田幸村(さなだゆきむら)」という武将は歴史上にいません。
「真田幸村」と呼ばれるのは「真田信繁(さなだのぶしげ)」という武将が、その死後に呼ばれるようになった名前です。

最初に幸村という名が出たのは死後60年後の1672(寛文12)年に刊行された軍記物「難波戦記(なんばせんき)」の中でのことでした。
その為歴史上の人物を紹介するのに本来は「真田幸村」と呼ぶのは適さないのですが、今回は「真田信繁」よりみなじみ深い「真田幸村」で統一します。

真田幸村の人生

真田幸村は1567(永禄10)年に武田家の家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)の次男として生まれました。

父親は時世を読むのが得意!

1582(天正)10年に武田氏が滅ぶと、真田氏は織田信長(おだのぶなが)に従属しました。
その際、真田幸村は織田氏の重臣、滝川一益(たきがわいちます)の下に人質として送られています。

その後、織田信長が本能寺の変で亡くなると、上杉氏に帰属することで独立を果たします。
さらにその後、織田家家臣の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が活躍を始めると、いち早く豊臣秀吉に服従することで真田氏は独立した大名となります。
武田氏から織田氏、そして上杉氏さらに豊臣氏へと臣従先を変えることで戦国の動乱の世を真田氏は生きながらえてきたんですね!

豊臣恩顧の武将、真田幸村

真田幸村は豊臣秀吉への服従に際して人質となりました。
人質といっても粗略には扱われず、豊臣秀吉の重臣「大谷吉継(おおたによしつぐ)」の娘の竹林院(ちくりんいん)を正妻としています。

また、1594(文禄3)年には従五位下左衛門佐(じゅごいげさえもんのすけ)の官位を与えられると共に豊臣姓も下賜されました。
当時は従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされていましたし、豊臣姓を与えられたという事からも真田幸村がどれだけ豊臣秀吉に好まれていたかが分かりますね!

豊臣秀吉が亡くなった後に起きた「関ヶ原の戦い」では、実父、真田昌幸と共に西軍に加勢し居城である上田城(長野県上田市)に籠城しました。
そして徳川家康の嫡男「徳川秀忠(とくがわひでただ)」率いる3万8千の徳川軍を迎え撃ちました。

この時の真田軍は全軍で2,500~3,000しかいなかったといいます。
10倍以上の敵を迎え撃ち、足止めに成功したということになります。

しかし関ヶ原では西軍は大敗したことで、戦後真田幸村と真田昌幸は敗軍の将として死罪になるところでした。

しかし、真田幸村の兄、「真田信之(さなだのぶゆき)」と徳川家康の重臣であり、真田信之の妻の父「本多忠勝(ほんだただかつ)」の助命嘆願により、高野山への配流になりました。
そして高野山の「蓮華定院」次いで、「九度山」へと移って14年の歳月を真田幸村は過ごすことになります。

大坂の陣では豊臣氏に加勢し散華する

九度山にいる真田幸村の下に豊臣氏から加勢の連絡がきたのは1614(慶長19)年のことでした。
この年、二度にわたる大坂の陣の一回目、大坂冬の陣が勃発するのですが、大坂城からの要請に応えた真田幸村は父の旧臣に声をかけ、軍勢を整えると九度山を脱出、大坂城へと入城したのでした。
残念なことに父、真田昌幸は3年前に亡くなっていましたため参戦できませんでした。

大坂城に入った真田幸村大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城を築き、ここから「前田利常(まえだとしつね)」など寄せ手を撃退し一気に勇名をはせました。
しかし、この真田丸以外の戦場では豊臣軍は劣勢だったため、12月に和議を結ばれることになりました。

和議が結ばれても平和な時代は半年も持たず、1615(慶長20)年5月に再び合戦が始まりました。
これが「大坂夏の陣」です。
5月6日に開戦し、8日に豊臣秀頼の自刃により終戦する短い期間の合戦でしたが、その間にも真田幸村は「道明寺の戦い」や「天王寺・岡山の戦い」で活躍しました。
しかし、「天王寺・岡山の戦い」での奮戦むなしく戦場に命を散らせたのです。

真田幸村と豊臣家の関係性

真田幸村の人生の項でも一部触れましたが、豊臣秀吉の人質になった真田幸村はこのように扱われています。

・豊臣秀吉の重臣「大谷吉継」の娘と結婚 
・従五位下左衛門佐の官位に叙任される 
・豊臣姓を下賜される 
・馬廻衆として一万九千石の独立した知行を与えられる 
・大坂と伏見に屋敷を与えられる

このことから、真田幸村はただの人質として扱われていたのではなく、石田三成のようにいずれ官僚になるべく教育を受けていたのかもしれません。
そして厚遇を受けた真田幸村は恩を忘れることなく命をとして豊臣秀頼のために戦ったようですね。

大坂の陣での名言

 

十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか。

戦国時代、最後の大戦として有名な大坂の陣、その前半戦の大坂冬の陣に真田幸村は豊臣方として参戦しました。
籠城戦が決定すると真田幸村は大坂城の弱点の三の丸南側、玉造口外に有名な真田丸を構築し、徳川勢の猛攻をしのいだことで無名だったその名前を一躍広めました。

大坂冬の陣は和議によって休戦しましたが、豊臣勢を弱体化させたい徳川家康は真田幸村に寝返りをさせるべく、真田幸村の叔父「真田信尹(さなだのぶただ)」を派遣し、十万石で寝返るように説得させました。
しかし、真田幸村はこの説得に対して豊臣秀頼に恩義があるため、と説得を断りました。
とはいえ、武勇を広く知られるようになった真田幸村を諦めるつもりのない徳川家康は、条件を十万石から信濃一国に変更し再び真田信尹を派遣しました。
冬の陣の終わった1614(慶長19)年当時の信濃国の石高が55万石弱でしたので、5倍以上に条件が増えたことになります。

しかし、その破格ともいえる条件に対して「十万石では裏切らなかった自分が、信濃一国なら裏切るような男に見えたのか!」と立腹したといいます!
義理では無く条件によっては裏切ると考えられたこと、そして自らの誇りを汚された真田幸村の怒りがよく感じられる言葉ですね。

定めなく浮世にて候へば、一日先は知らざることに候。我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候。

この言葉は大坂の陣の後半戦、大阪夏の陣に際して真田幸村が義兄「小山田茂誠(おやまだしげまさ)」に宛てた手紙の一文にあります。
この世は不安定な世情であり、明日のことはどうなるかはわからないことなどで、私たちはこの世にいないものと考えてください。」といった意味合いになります。

大坂冬の陣の和議では、真田丸の取り壊し外堀の埋め立てが決定しました。
しかし徳川勢により約束の外堀だけでなく、内堀まで埋め立てられてしまい、鉄壁といわれた大阪城はなんと防衛性皆無の裸城になってしまいました。

そのため、大阪夏の陣は籠城したくても籠城できないので、外に出て合戦をするしかないという、冬の陣以上に不利な状況で開始となりました。
その事から真田幸村が必死の覚悟で決戦に臨むという決意を義兄に伝えたのではないでしょうか。

関東勢百万も候へ、男は一人もなく候。

不利に不利を重ねたような状況の大坂夏の陣ですが、真田幸村は諦める事無く抗戦しました。
1615(慶長20)年5月6日の「道明寺の戦い」では濃霧の影響で遅れて参加となりましたが、この遅れは豊臣勢としては手痛いものになり、真田幸村が到着する前に「伊達政宗(だてまさむね)」軍により、豊臣勢の猛将「後藤又兵衛(ごとうまたべえ)」が討ち取られてしまっていました。

その失点を取り戻すべく、真田幸村は伊達政宗軍と交戦。
この戦いでは伊達政宗軍は当時最強の兵といわれていた「騎馬鉄砲隊」を前線に出しましたが、真田幸村軍は地面に伏せることで馬上からの射撃を防ぎ、打ち破ったともいわれています。

その後、大坂城から他の戦場での敗戦の知らせと共に退却の命令が出されたため、真田幸村は殿(しんがり)に名乗りを上げます。
殿とは撤退戦の最後尾を担当することで、いつどこで敵襲にあってもおかしくない危険な役目でした。
しかしこの撤退に対して、徳川軍は誰も追撃をしませんでした。

そこで真田幸村が徳川軍に対して言ったのが「関東兵は数多くいても男は一人もいないのか!」という挑戦的なこの口上です。
これは追撃されたくない状況ですので、徳川軍を嘲笑し怒らせるのが目的では無く、後藤又兵衛をはじめ大打撃を受けた豊臣勢の兵に対して鼓舞するための言葉だったのではないでしょうか。

真田幸村の最期

道明寺の戦いの翌日、真田幸村は賛同を経た同志たちと共に最後の決戦に挑みます。
本来の予定では右翼の真田幸村の隊と左翼の隊が四天王寺・茶臼山付近に布陣、射撃戦と突撃を繰り返すことで徳川家康の本陣を孤立させる。
そして、迂回・待機させた軽騎兵団を合図と共に急襲させる、というものでしたが、左翼側で射撃戦が激しくなりすぎてしまったためこの計画は失敗。

真田幸村は死を覚悟したうえで徳川家康の本陣に突撃しました。
この突撃は真田幸村の兵だけでなく、他の豊臣勢にも広がり、全軍が徳川家康の本陣に突撃すべく奮戦。

結果、徳川家康の本陣が総崩れするほどの事態になったそうです。
この真田幸村の決死の突撃にさすがの徳川家康も死を覚悟することになりました。
しかし、この突撃も失敗に終わり、豊臣勢の敗北は決定的なものとなり翌日の5月8日、豊臣秀頼の自刃の結果豊臣家滅亡となりました。

そしてこの突撃に失敗した真田幸村もまた、安居神社(大阪府大阪市天王寺区)の境内で身体を休ませていたところを越前松平家の鉄砲組頭、西尾宗次(にしおそうじ)に発見され討ち取られたといいます。

関ヶ原の戦いに際しても名言を残す

 

真田幸村は大坂の陣の前、関ヶ原の戦いに際しても名言を残していましたのでご紹介します。

恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか。

関ヶ原の戦いに際して徳川家康率いる東軍、石田三成の西軍両方から加勢の依頼が来ていました。
その際、東軍には味方できないと返したのがこの言葉です。

豊臣秀吉のもとで育てられた真田幸村は豊臣恩顧の人物でしたし、西軍の武将の一人「大谷吉継(おおたによしつぐ)」は真田幸村の妻の父でした。
そのため、これまでの恩と義理を考えれば西軍に付く以外真田幸村には選択肢はありませんでした。

ですから、東軍の誘いに対しては「これまで受けた恩を忘れて、金や地位を求めるようでは人ではない」と断っています。
このため、兄の「真田信之(さなだのぶゆき)」は東軍に、真田幸村は父の真田昌幸と共に西軍に付くことになりました。

この言葉は関ヶ原の戦いではなく、大阪の陣の際のものともいわれていますが、大坂城に真田が入城と聞いて徳川家康は焦った、という逸話があります。
このことから、大坂の陣の際には九度山に謹慎していた真田父子に徳川勢から声はかかってなかったと推測できます。
その為、関ヶ原の戦いの際の言葉かと筆者は推測しています。

人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし。

関ヶ原の戦いの前に兄の真田信之とは敵対することになり、西軍が勝っても東軍が勝っても真田家はいずれかが残るという状況になりました。
この言葉は、その際に兄の真田信之は「西軍が負けた際は殺されないように尽力する」と言ったのに対して返したものです。

死んででも目的を達成しなければならない時は潔く身を捨てる。それでこそ勇士でしょう。」と返した真田幸村は実に清々しい人物であり、武士の中の武士というにふさわしい人物ですね!

まとめ

真田幸村は清廉な人物であり、過去の恩を決して忘れずに帰そうとする義理堅い人物だったようです。
そして、大坂の陣では最後まで勇猛果敢に戦いその名を有名にしただけでなく命をとして豊臣氏のために戦いました。

今回ご紹介した名言は状況も踏まえてマンガの主人公のように爽やかであり、胸がスカッとする言葉ですよね!!
この言葉は裏切ったり謀略を働かなかった真田幸村だから言えたのではないでしょうか!

他にも戦国武将の名言を紹介した記事がありますので併せてご覧ください。

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