加賀百万石といわれた加賀藩の初代藩主「前田利家(まえだとしいえ)」。
彼は織田信長(おだのぶなが)の家臣として仕えていたころに失態をしたために妻子がいるにもかかわらず2年にわたり困窮した浪人生活をすることになります。
この浪人時代はおしどり夫婦と評される妻のまつの支えで乗り越えました。
また、この困窮の時代には友人の豊臣秀吉(とよとみひでよし)からも助けを得ていたといいます。
前田利家がこの浪人時代を振り返った際の言葉が至言なので、困窮するに至るまでの経緯と、困窮時代を振り返った名言を併せて紹介します。
目次
若き日の前田利家、やらかす
織田信長のお気に入りだった前田利家
前田利家は、1551(天文20)年頃から織田信長(おだのぶなが)の小姓として仕えます。
この頃の前田利家は短気で喧嘩っぱやい上に、派手な格好をしたいわゆる「かぶき者」といわれる社会の鼻つまみ者的な存在でした。
しかし、前田利家は背丈が6尺、約182cmというかなり恵まれた体格なうえ、顔立ちも整っており、また主君の織田信長自身もかぶき者ということから織田信長から非常に気に入られていたといいまます。
前田利家の初陣は、織田信長が当主になった直後の「萱津(かやつ)の戦い」でした。
当時の前田利家は13歳の元服前、まだ「前田犬千代」と幼名を名乗っていたころでした。
しかし前田利家は、三間半(約6m30cm)も柄の長さがある朱槍を用いて首級を挙げる功を立て、織田信長から賞賛を受けています。
見た目だけでなく腕前もあったことから織田信長からはさらに気に入られるようになったようです。
前田利家、やらかして織田家家中から追放される
初陣の時に使っていた槍の腕にさらに磨きがかかり「槍の又左衞門」とも呼ばれその武名は広がりました。
その後は、「赤母衣衆(あかほろしゅう)」という織田信長直属の精鋭部隊の筆頭に抜擢され、前田利家は順風満帆な日々を送っていました。
しかしある時、織田家から追放されるほどの失態を前田利家はしてしまいます。
その失態とは1559(永禄2)年に織田信長に仕えていた同朋衆の「捨阿弥(じゅうあみ)」を諍いの末に斬ってしまったことです。
同朋衆というのは能楽や庭園作りなどの芸術を司る役職です。
役職柄、織田信長から捨阿弥は寵愛を受けていました。
この寵愛をかさに着て「捨阿弥」は織田信長配下の武将に非常に横柄な態度をとっていました。
態度が横柄なだけでなく、前田利家は妻の「まつ」から貰った佩刀の笄(こうがい・日本刀や太刀の鍔に付ける付属品の一つ)を盗まれ、さらに度重なる侮辱を繰り返されるという目にあっていました。
このことに立腹した前田利家は、織田信長の前で捨阿弥を斬ってしまいました。
この捨阿弥の殺害に対して織田信長は激怒し、一時は打ち首を宣告しようとしていました。
しかし重臣「柴田勝家(しばたかついえ)」や「森可成(もりよしなり)」のとりなしもあって出仕停止処分となりました。
そのため、前田利家はいままでの織田家家臣としての日々から一転、浪人暮らしをすることになったのです。
帰参を許されるまでの苦労
出仕停止の命が下っていた前田利家ですが、再び織田家に仕えるべく奮闘しました。
まず1560(永禄3)年におきた「桶狭間の戦い」では織田信長の許しを得ないで無断参加します。
この戦いでは三つの首級を挙げる功績をあげましたが、帰参を許されることはありませんでした。
しかし前田利家は諦めず、翌年の「森部の戦い」にも織田信長の許しを得ず参加します。
この合戦では素手で首を取ることから「首取り足立」とも呼ばれていた怪力自慢の豪傑「足立六兵衛」を討ち取る他、もう一つ首級を挙げるという功績を挙げています。
この二つの首級でようやく織田信長から帰参が許されました。
苦労した若いころを省みる名言
捨阿弥を斬ってから2年間で前田利家の人生観は大きく変わったようで、後にこの時代を振り返って名言を残しています。
人間は不遇になった時、初めて友情のなんたるかを知るものだ
前田利家は当時、織田信長のお気に入りであり、精鋭部隊の赤母衣衆筆頭という役目もあったため、多くの人物に囲まれていました。
しかし事件を期に一転、人々は前田利家は敬遠されてしまいました。
そんな中、前田利家と交友が途絶え無かったのが、後の「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」こと「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」でした。
人が離れていってしまう状況になって初めて、友情のありがたさと離れないでいてくれる人物がどれだけ信頼できるかを前田利家は嫌というほど実感したのではないでしょうか。
ともかくお金を持てば、人も世の中も恐ろしく思わぬものだ、逆に一文無しになれば世の中も恐ろしいものだ
前田利家が浪人になったのは「まつ」と結婚して1年、長女の「幸」が産まれてすぐのことでした。
そのため困窮した状況というのは非常に辛かったのでしょう。
織田信長に帰参が許された後、もうあのような困窮した生活は嫌だといわんばかりに倹約家になります。
なんと前田家の決算はすべて前田利家が吟味したうえで決算して、無駄遣いが無いかを確認していたといいます。
その姿は前田利家の妻まつがケチと評するほどでした。
妻にケチと言われるほどの倹約により前田家は豊かになり、他の大名に金を貸すこともあったそうです。
しかし、前田利家が金貸しをしておきながら卑しい人物といわれていないのは、亡くなる時に「貸した相手に催促はせず、返せないようなら借金をなかったことにするように」という度量の広い言葉を遺していたからではないでしょうか。
また、当時日本に伝来されたばかりの算盤を得意とし、戦場にも持ち歩いていていつでも金勘定をしていたといいますから、金への執着はすさまじいものがありますね。
まとめ
周りの人に離れられ、金銭にも苦労するこの困窮の時代にあっても、夫婦仲は決して悪くなかったようで、実際に前田利家と妻まつといえば戦国時代のおしどり夫婦の代名詞ともなっています。
もしかしたらこの浪人時代の苦労が夫婦として強固な絆を結んだのかもしれません。
苦しい時代を妻まつと乗り越えたからこそ前田利家は公正に人々に接し、豊臣秀吉から「無類の律義者」とまで称さる人格者になったのではないでしょうか。