マリーアントワネットと聞いて多くの方がイメージする人物像は「常識外れの金銭感覚を持ち贅沢三昧して国民から嫌われた王妃」「おとなしい国王ルイ16世を都合よく扱った我儘な悪女」などではないでしょうか?
しかし近年、そんなマリーアントワネットの疑念が晴れて、実はフランス革命の犠牲者だったということが証明されたのです。フランス国民を激怒させた名言「パンが買えないならケーキを食べればいい」に隠された真実とは?
今回は、我儘で浪費家だと嫌われ続けた王妃マリーアントワネットの悲劇を解説いたします。
目次
マリーアントワネットとは
1755年11月2日、ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリアテレジアの11女としてオーストリア ウィーンで生まれました。オーストリアでの名前は「マリア・アントーニア」。幼いころから天真爛漫で人を引き付ける魅力があったそうです。
当時のオーストリアは、フランスとの同盟関係を深めようとしていました。その一環として母のマリアテレジアはマリーアントワネット(以下マリー)とフランスの国王ルイ15世の孫を結婚させる計画を立てたのです。
フランスの王妃
1770年、ヴェルサイユ宮殿にて、マリー(14歳)と当時の王太子ルイ(15歳)の結婚式が盛大に行われました。その後、1774年 ルイ16世が即位し、マリー(19歳)はフランス王妃となったのです。
当時のフランス社会で期待される王妃像といえば、国王の後ろからそっと寄り添うような女性でした。しかしマリーはとても個性的で近代的な輝かしい女性だったため、もしかしたら、この時から多少なりとも国民の反発をかっていたのかもしれませんね。
14歳で他国へ嫁ぎ19歳で王妃になるなんて、想像もつかない環境です。マリーは何を思い、何を感じていたのでしょうか?
フランス革命と対決
フランス革命(1789~1799年)とは、共和国(民衆)がフランス軍(王政)を倒すことになった市民革命です。長年続いた不平等な封建制度と絶対主義的国家体制に不満を持っていた民衆の怒りが爆発し、ついに動き出したのです。民衆の力を恐れた貴族たちは、国王一家を見捨て次々と国外へ亡命していきました。
1791年6月22日、国王一家も亡命計画を立てるのですが、パリを脱出するところで見つかり逮捕されることになりました(ヴァレンヌ事件)。この時、二人の子どもたち(長女13歳、長男6歳)を溺愛していたマリーは、危険を伴ってでも家族揃って逃亡することを望んだそうです。
1792年、マリーが、共和国の情勢や作戦をフランス軍に漏らしていると噂がたち国王一家は幽閉されることになりました。
フランス革命で処刑
1793年、ルイ16世が死刑判決を受けギロチンによる斬首刑にて処刑。次いで1793年10月16日、マリーもギロチンによる斬首刑で処刑されることとなりました。享年37歳でした。
まだ幼い子供たちを残して処刑となったマリー。その無念さは計り知れません。
贅沢し過ぎで国家を傾かせた?
マリーが贅沢をし過ぎて国家を傾かせたという話には、矛盾が多くあります。
国家を傾かせるほどお金を使う権利を持っていなかった
マリーには、王国のお金を好き勝手に使い贅沢をする権利など持っていませんでした。マリーが自由に使ってよいものとして与えられるお金は「お小遣い制」だったからです。
王室及び特権貴族の出費はフランス国家予算の約6%と決まっていました。マリーに与えられるのは、その中から更に数パーセントで、金額にすると年約30万リーヴル(600万円ほど)だったといいます。600万円を12ヶ月で均等割りすると一ヶ月50万円。その中から衣装代やお化粧品代などを払っており、国家を傾かせるほど浪費家というイメージは悪意のある噂話が広まったといえます。
実は庶民の為に宮廷で募金
マリーがフランスに来た時、すでに国家財政は傾いており貧しい民衆がたくさんいました。それに気づいていたマリーは、宮廷内で募金活動を行っていたのです。しかし、それを良く思わない貴族がいたことも事実です。きっと、「フランス人ではないよそ者が来て勝手に何かやっているわ」と冷めた目で見ている貴族もいたことでしょう。
後に、フランスの財政が傾いたことはマリーの浪費癖が原因だという噂が広まり、この募金活動はかき消されてしまうのでした。
有名な名言「パンがなければケーキを食べればいい」
「お金がないからパンが買えない!パンが食べたい!」という民衆の叫びに対して「パンがなければケーキを食べればいいのでは?」とマリーが言い放ったのは有名な名言ですよね。
実はこれも嘘だったのです。
本来はケーキではなくブリオッシュ
マリーは「パンがなければブリオッシュを食べればいいのでは?」と言ったのが真実です。そして、これにはしっかりとした理由があります。
ブリオッシュはパンより安価
当時、ブリオッシュはパンよりも安く売られており、安価な食べ物の代表格でした。同じ金額でパンの倍の量が買えるほどだったそうです。「高いパンが買えないのならば安いブリオッシュを買えばいいのでは?」という、もっともなアドバイスだったんですね。
実は彼女の言葉ではない!?
「パンを買えないならケーキを買えばいいのに」マリーの言葉ではありませんが、この言葉には出所があります。
ルソーの著書に出てくる表現
この言葉の出所は、フランスの哲学者ルソーの自伝「告白」に記されている表現なのです。実際には「さる高貴な女性がこういっていた」というように書かれており、どこにもマリーの言葉だとは書いてありません。
似たような言葉を言ったのは確かですが、真逆の意味を持つ言葉として広まり信じられてしまったんですね。当時のマリーに対する風当たりが強かったことが窺える出来事です。
『告白』(こくはく、仏:Les Confessions)は、1764年から1770年にかけて書かれ、1781年と1788年に死後出版された、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーによる自伝。『告白録』(こくはくろく)、『懺悔録』(ざんげろく)とも。『エミール』出版を契機として逃亡生活を余儀なくされたルソーが、当時のフランス社会に対して自身の弁明を行い誤解を解くこと、そして同時に将来の人間研究資料を提供する目的で書かれた。
マリーアントワネットの名言
多くの名言を残したマリーアントワネット。その中から一部ご紹介いたします。
「ごめんなさい。わざとではないのですよ。」
死刑執行の際に執行人の足を踏んでしまったときの名言で、マリー最後の言葉だといわれています。この言葉の後に「靴が汚れなくて良かったわ」と言ったとも。死刑直前の身も心も衰弱した状態でも、人を思いやることができる淑女だったことが窺えます。
「何もいりません。すべて終わりました。」
処刑される日の朝食について聞かれた時に答えた名言です。傲慢で贅沢三昧して過ごした人が、こんなに控えめなことを言えるでしょうか?
「あらゆる浪費の中で、最も咎む(とがむ)べきは時間の浪費である。」
時間を無駄にすることは浪費の中で何よりも責めなければならないことだ、という意味の名言。常にその瞬間を大切にしながら日常を過ごしていたことが分かります。
「女心は、どんなに悲しみで一杯になっても、お世辞や恋を受け入れる片隅がどこかに残っているものだ。」
どんなに悲しいことがあっても一人の女性として自信を持ち続けていたいという気持ちでしょうか。女性であることに誇りを持ち堂々と自然体で生きていたことが伝わります。
「不幸な暮らしをしながら私たちに尽くしてくれる人々を見たならば、彼らの幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私のつとめだというのは当然のことです。」
マリーがオーストリアの母に宛てた手紙の中の一文。フランス国民の貧しい状況を理解していたことが分かる名言です。仮にマリーが傲慢で残酷な女性だったら、こんな言葉は出てこないでしょう。国民の幸せを願う責任感から自分でできる事を考え、募金活動を行っていたことが分かります
「さようなら、私の子供たち、永遠に。私はあなたの父のところへ行くわ。」
自身が処刑されることを知らされたときに残した名言です。子どもたちに「これは悲しいことではないのよ。」と伝えたかったのでしょうか?マリーが子供たちと夫であるルイ16世のことをとても大切に考えていたことが分かります。
まとめ
マリーアントワネットの真実を知っていただけましたでしょうか?何百年たった今となり、本来のマリーは愛に溢れる慈悲深い女性だったことが理解されるとは、悔やまれる思いでいっぱいです。
何事も人の噂話だけで信じてはいけないと、自分の目で見て自分の耳で聞いたことが真実なんだと、深く考えさせられるヒストリです。
フランス革命が生んだ英雄ナポレオンについての記事もございます。彼もまた、間違えた噂話として受け継がれていることがあるんです。こちらも併せてご覧ください。
実はぐっすり寝ていました…ナポレオンの睡眠時間は3時間説は真っ赤な嘘!?
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出典:Wikipedia(マリー・アントワネット) / Wikipedia(告白)