武田信玄は築城の達人!「人は城」の名言は「城は不要」の意味ではない!領地にはいくつものお城があった

「人は城」で始まる名言で知られる戦国大名の「武田信玄」。
この名言から自分の領地に城はいらない、と印象がありますがこれは全くの勘違い。

実は武田信玄の時代にも領地には城はありましたし、武田氏は築城の達人とされその築城技術は武田流築城術と呼ばれています。

また、城によっては歴史上有名なできごとの拠点にもなっています。
城はいらない、どころか築城の達人だった武田信玄のお城についてご紹介します。

武田信玄の住んでいた「躑躅ヶ崎館」、『館』というより・・・これはお城!

 

武田信玄が本拠地としていたのは、現在の甲府市にかつてあった「躑躅ヶ崎館」です。

館というより構造はお城

武田信玄が生涯の住まいとした「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」。
その広さは東西200m、南北190mあり約1.4万坪という広大な敷地にそびえていました。

この広大な敷地を持つ躑躅ヶ崎館は、館といいながらも外濠、内濠、空濠という3つの堀に囲われていましたし、更に館自体を東曲輪、中曲輪、西曲輪で構成し、果てには虎口や馬出しといった城郭によく見られる防御機構も備えていました。

坂の上に構えられた「躑躅ヶ崎館」は通常の館とは違い、城といっても差し支えのない設備の整った居館となっていたのです。

建てたのは父親

「躑躅ヶ崎館」を建てたのは武田信玄ではなく、先代であり父親の「武田信虎(たけだのぶとら)」です。
元々は現在の甲府市の東にある川田を拠点としていましたが、当時川田が水害の頻発地だったことから「躑躅ヶ崎館」へ移転しました。

現在は武田神社として

「躑躅ヶ崎館」は現在では その姿そのものを残していません。
しかし、「躑躅ヶ崎館」跡地には武田信玄を御祭神とする『武田神社』建立されており、多くの人が参拝に来る場所になっています。

武田神社建立までの歴史

武田神社の建立までには武田氏滅亡から長い時間がかかっています。
武田氏が滅亡した後も「躑躅ヶ崎館」は残っていましたが、江戸時代の初頭頃に取り壊され、豊臣秀吉の時代に建立された『甲府城』の城下町の一角に姿を変えました。
しかし、甲府の住民が武田信玄を敬愛する気持ちは江戸時代を過ぎても衰えませんでした。

日清戦争や日露戦争の影響から明治時代後半には軍神や武神を祀るのが全国的な傾向となると、甲府では「武田信玄」を武神として祀ろうする運動が起こりました。
そして大正8年(1919年)、ついに『武田神社』の社殿が竣工、武田信玄の命日である4月12日には初の例祭が執り行われました。

武田神社に残る「躑躅ヶ崎館」の遺構

「躑躅ヶ崎館」が取り壊されたのは関ヶ原の戦いのあった1600年頃ですが、現在でも武田神社の中で遺構を見ることができます。
特に『姫の井戸』と呼ばれる古井戸は、武田信玄の娘が生まれた際に産湯として使われた井戸とされています。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

 

武田信玄の人間性などを語る上で必ずと言っていいほど登場してくる「人は城〜」のめいげんですが・・・。

名言の内容

武田信玄の名言として知られる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」。
この言葉は、信頼で結ばれた集団は城のように強固さがあることをあらわした言葉とされています。

人間性を見極めて信じて仕事を任せれば信頼で結ばれますが、逆に抑えつけ不信感を与えれば反発してくるとも続けています。

実は創作?

この言葉は江戸時代初頭に編纂された『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』という武田信玄・武田勝頼に2代の事績や合戦、軍法、更には武士としての心構えや理想など多岐にわたり書かれた書物に出てくる言葉です。

武田信玄や武田勝頼の家臣が著した文書に後から多くの人物が書き足していったものとも考えられていることと、「人は城」からはじまる言葉が『ある人が信玄公の御歌として言う』とあいまいな表現で紹介がされていることからこの名言は創作なのでは無いかともいわれています。

他にもある武田信玄のお城

 

甲府を中心に勢力を広げていった武田信玄。
関連する城は、当然他にもまだまだあります。

出生地・要害山城

「躑躅ヶ崎館」の裏手にある丸山とも呼ばれる要害山(ようがいさん)にかつてあったのが「要害山城」です。
拠点の「躑躅ヶ崎館」は坂の上にあるとはいえ、勾配は緩いことから防御面が弱点となっていました。
その弱点を補うために、武田信玄の父「武田信虎」が築城したのが要害山城になります。

この城は避難場所としての役割もあり、実際に今川家の家臣が甲府に攻め込んできた時は、武田信虎の正室が避難しています。
その際、身籠っていた為城内で男子を出産、その時生まれた武田信玄の出生の地ともなっています。

川中島合戦での要衝・松代城

 

戦国時代は海津城(かいづじょう)と呼ばれた「松代城(まつしろじょう)」は、川中島をめぐる上杉謙信との戦いに際して武田信玄が築いた城です。

軍師として名高い「山本勘助(やまもとかんすけ)」が武田信玄に築城を命じられたとされるこの城は、千曲川(ちくまがわ)の南にあり、かつ川中島の東にあることから川中島を巡る戦いにおいて非常に重要な拠点でもありました。
啄木鳥戦法や武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで有名な第四次川中島合戦では武田軍はこの松代城から兵を出し、八幡平で上杉軍と激戦を繰り広げています。

信濃攻略の拠点・上原城

諏訪家を滅ぼした武田信玄が、信濃侵攻の拠点としたのが、元は諏訪家の本拠地だったこの上原城です。
この城は標高978mの金毘羅山の山頂にある城と中腹にある居館の2つで構成されています。

松本城

 

上原城を拠点とし信濃侵攻をすすめる武田軍が手に入れた城が松本城です。
松本平の要衝として松本城は重要視され、改築や増築も行われています。

現在では天守が国宝として認定されている名城です。

まとめ

「人は城」の名言から、武田信玄は自分の領地に城を不要のものとしていた、と考える人もいるようですが、実際には多くの城が武田信玄の領地にありました。
武田信玄自身、生まれたのは城ですし、その拠点も居館というよりも城の様相があります。

ちなみに、甲府駅のほど近くにある舞鶴城公園、この場所にあったお城は豊臣秀吉の時代に建てられた『甲府城』の跡地になりますので、武田信玄とは関連性は特にありません。

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