
大きく差があることを表現する「雲泥の差」。
しかし、そもそもなぜ雲と泥を比較しているのでしょうか?
差があるものなら天と地でも良いですよね。
そこでここでは、「雲泥の差」という言葉の意味や類義語について見ていきましょう。
目次
「雲泥の差」とは

まずは「雲泥の差」の意味について見ていきましょう。
また、ここでは別の表現についても併せてまとめます。
「雲泥の差」の意味
「雲泥の差」は非常に大きな違いや大きな隔たりのある存在を例えた言葉です。
極端なまでに優劣や美醜で差が付いているものを指しあらわしています。
「天地雲泥」や「雲泥万里」と表現されることもある
ことわざのひとつである「雲泥の差」には、四字熟語としての表現がされる事もあります。
その際は、「天地雲泥」や「雲泥万里」となります。
「天地雲泥」は、天と地の差と雲と泥の間の大きな隔たりを、「雲泥万里」は雲と泥の間がものすごい放れている事つまり大きな違いがあることをあらわしています。
「雲泥の差」にある2つの由来

「雲泥の差」には、由来とされる故事が2つ伝わっています。
ここからは、「雲泥の差」に関する2つの故事について見ていきましょう。
後漢書-矯慎伝
「雲泥の差」は、「後漢書―矯慎伝」にある故事から来ているとされています。
それは中国が後漢という国名だった時代のこと。
「呉蒼」という人物が、ある日山奥で隠遁する「矯慎」という人物に手紙を出しました。
その書き出しに、お互いの立場を例えた「乗雲行泥」という一節があります。
「乗雲」は雲の上のような高い世界で暮らしていることを、「行泥」は俗世で欲にまみれた生活していることをあらわしています。
しかし、この文は立場の差があることこそ明確にしていますが、いつも慕って敬愛している」という気持ちを表現した文言となっています。
この2人の生き方の違いから、「雲泥の差」という言葉が生まれたとされています。
白居易の詩
「雲泥の差」は、唐代の詩人である白居易の詩「傷友」の一節から来ているという話もあります。
その一節とは以下のようなものです。
「昔年洛陽社 貧賤相提擕 今日長安道 對面隔雲泥」
「洛陽にいたときは貧しいながらも助け合ったものだが、今は長安の道で出会ったのに振り向きもせず、雲泥の隔たりを感じる」といった文面となりまます。
これは仲の良かった友人と疎遠になってしまったことへの悲しみを表現した詩となっています。
この歌の作者「白居易」は、唐代中期の代表的な詩人の1人です。
兄は白幼文、弟は白行簡という人物でし、共に官僚として活躍しています。
「雲泥の差」の類義語

ここからは「雲泥の差」の類義語を見ていきましょう。
月とすっぽん
「月とすっぽん」は、比較にならないほど違いが大きいことの例えです。
月もすっぽんも同じように丸い形状をしていますが、全くの別物となっています。
月は満月になると煌々と輝きますが、すっぽんはずっと地味な色合いなままです。
この2つの姿の違いから、生まれたとされます。
霄壌の差
「霄壌の差」は、非常に大きな違いがあることを意味します。
「霄壌」は天と地のことをあらわしていますので、地表から天までのように大きく離れている・違いがあることを意味しています。
提灯に釣り鐘
「提灯に釣り鐘」は、形こそ似ていても全く違うもの・事を指します。
また、比べ物にならないことを意味する言葉でもあります。
たしかに、提灯と釣り鐘は少し似た姿をしているような気もします。
しかし、火をともす提灯と、神社仏閣などでうつ釣り鐘では用いられ方や大きさ・重さなどが全く異なります。
そこから、姿が似ていなくもないけれど、大きく異なるもののを指して用いられるようになりました。
まとめ
「雲泥の差」は、雲と泥の間柄のように、大きく差があることの例えです。
この言葉は、中国の故事から生まれたとされています。
後漢の時代に書かれた手紙のやり取りにまつわる言葉とも、友と疎遠になってしまった事を嘆き詠んだ歌から来ているともされています。