学校の歴史の時間にも必ず習う、歴史上の偉人・豊臣秀吉。その偉業や機転の良さから、様々な伝説が語り継がれています。
戦や政治に関することはもちろんですが、中には指が6本あったという耳を疑うようなことまで!
“指6本説”をはじめ、豊臣秀吉の伝説を詳しくご紹介します!
目次
豊臣秀吉についての基礎知識
1537年に誕生したとされる豊臣秀吉は、当時としてはとても身分の低い農民の生まれだったといいます。
とはいっても現在まで、豊臣秀吉の出自に関しては実は明確にされておらず、父親の名前に関してさえはっきりしていません。
17歳で当時天下人といわれた織田信長に仕えた後、その持ち前の賢さと人柄、野望の大きさでどんどんと出世。
45歳の頃には本能寺の変で倒れた主君・信長の仇討ちを果たし、名実ともに天下人としてその名を知らしめました。
豊臣秀吉の指6本説!?
最下層の位から天下人となった秀吉は、様々な伝説がまことしやかに語られていますが、中でも有名なのが“指6本説”です。
ルイス・フロイスの日本史の記載
イエズス会の宣教師として戦国時代に日本にやってきたルイス・フロイスが残した、日本での布教活動の記録「日本史」に、秀吉の指に関する記載があります。
その内容は、「身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で性格は最悪に尽きる。片手には六本の指があった」というようなもの。
6本指説はデマ?
海外でも長い間信じられてきた、フロイスの“秀吉指6本説”。しかしこれは、邪説、いわゆるデマだとも言われています。
なぜなら、フロイスと秀吉は仲が悪かったとされているから。
誹謗中傷(けなし言葉)としてそのように記載したのではないかという考えもあります。
近年見つかった前田利家の回想録
ところが近年、“秀吉指6本説”の信ぴょう性がぐっと上がる発見がありました。
加賀藩の藩主だった前田利家が残した「国祖遺言」の中に、「大閤様ノ右之手オヤ由飛一つ多六御座候(太閤様の右の手には、親指がひとつ多く6本あった)」といった1文が見つかったためです。
しかし一方で、こちらの「国祖遺言」も信ぴょう性が疑わしい点がある書物とされています。
ただ、秀吉が亡くなった後の書物であることから、わざわざ亡くなった秀吉を利家が誹謗中傷する必要もない、ということから、事実ではないかという意見も多く出ています。う~ん、ミステリアスですね!
秀吉は1つの目に瞳が2つあった?
豊臣秀吉の外見に関する伝説は指6本説だけではありません。瞳、すなわち黒目が1つの眼球に2つあったというものもあります。
秀吉重瞳(ちょうどう)説
秀吉に関する伝説の中には、「1つの目に瞳が2つあった(重瞳)」というものもあります。
重瞳は古来より中国では貴人の相とされており、古代中国の伝説上の聖王「舜」も瞳が2つあったとされていました。
そしてこちらも真偽の程は不明です。「それだけ偉業を成し遂げた偉人なのだ」という、後の世に作られた権威付けのための伝承とも考えられています。
ほかにもいろいろ!秀吉の常人離れ伝説
秀吉は最強の“人たらし”!天下を取って性格が豹変?
信長に仕え、天下を取る前の秀吉はとても人懐っこく、争いが嫌いで穏やかな誰にでも好かれる“人たらし”だったとされています。
人望が篤く、それが功を奏して出自が低いながら天下取りまで成し遂げたとされています。
一方で、天下を取ってからの秀吉は冷酷非道な為政者ともいわれています。
忠義があったはずの信長が本能寺の変で倒された後には、その一族に対して切腹や追放などのひどい処遇を課したのだとか!
信長の草履を温めていた逸話は本当?
そんな秀吉の一番有名な伝説といえば、「主君・信長の草履を懐で温めた」という逸話ですね。
大河ドラマや映画でもよく描かれるシーンですが、この逸話が最初に提唱されたのは江戸中期以降に出版された「絵本太閤記」なんだとか。
そのため、フィクションである可能性が高く信ぴょう性は極めて低いそうです。
“人たらし”で気が利く秀吉の性格から生まれたエピソードなのかもしれませんね。
【まとめ】秀吉の常人離れ伝説!
多くの伝説がある豊臣秀吉。真偽のほどは定かではありませんが、それだけ秀吉の残した偉業が大きなものだということですね。
他にも聖徳太子など、歴史上の人物の面白い伝説や逸話をまとめた記事がありますので是非チェックしてみてくださいね!
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