【伊達成実】伊達政宗の忠臣と言われる武将はどんな人物?どんな活躍をしたの?

東北地方きっての有名な戦国大名「伊達政宗」。
この伊達政宗には多くの忠臣がいましたが、特に「伊達の双璧」の一人とされる忠臣が、一門衆でもある「伊達成実」です。
伊達家において一番の剛の者と言われた、武勇に優れた人物です。
ところがこの伊達成実、一度伊達政宗の元から離れてしまった事もあります。

ここでは、戦国時代でも特に人気の高い武将「伊達政宗」の忠臣「伊達成実」についてご紹介します。
ちなみに、成実と書いて「しげざね」と読みます。「なるみ」や「なみ」ではありません。少し難読な名前ですね。

伊達成実の来歴

 

まずは、伊達成実の来歴についてみていきましょう。
歴戦の戦士でもありますが、逝年79という当時にしては長生きした人物でもあります。

伊達家きっての貴公子

父親は、伊達政宗の父・伊達輝宗の叔父「伊達実元」、母親が伊達輝宗の妹「鏡清院」と、伊達家一門の人物を両親とするサラブレッドともいうべき人物です。
兄弟もいなかったため、幼少期から伊達家にとって相当重要位置に存在した人物という事になります。
実際、元服の際は、主君であり伊達家当主でもある伊達輝宗が烏帽子親となっています。

伊達成実が生まれたのは、後に主君となる伊達政宗が生まれた翌年、1568(永禄11)年のことです。
そのため伊達政宗にとって、最も近しい親族のひとりともいえます。

成長した伊達成実は、1583(天正11)年に家督を継ぎます。
翌年には伊達政宗も家督を継いでいますので、伊達家の中心人物たちは一気に世代交代をしたことになります。

とはいえ、伊達輝宗は隠居したとはいえ全権を伊達政宗に委ねたわけではなく、外交面などでは仕事を続けている、二頭体制だったと考えられます。
伊達政宗もまだすべてを託せるほど経験を積んでいない18歳の若者ですし、このような二頭体制は他の家でも見ることができます。

これは伊達成実も同じです。
確かに、父・伊達実元は隠居しはしましたが、その後も一門衆の長老として伊達家のために働いています。

血気盛んな猛将

伊達輝宗の弔い合戦という側面もある「人取橋の戦い」、東北の関ヶ原の戦いともいわれる「摺上原の戦い」などで活躍をしています。
また、後に1592(文禄元)年から始まる「文禄の役」こと朝鮮出兵にも参加しています。

人取橋の戦いの後は、当時の伊達家にとって最前線ともいえる二本松城を任されるようになります。
当主伊達政宗に非常に近しい親族であり、武勇に優れた人物という事で軍師である片倉小十郎と共に「伊達の双璧」と呼ばれる有力家臣でした。

謎の出奔と復帰

 

伊達家の家臣の中でも重きを置かれる人物として順風満帆に過ごしていると言えた矢先、文禄の役から帰国後の1595(文禄4)年に突如出奔、つまり伊達家から出て行ってしまいます。
出奔したのは、1595(文禄4)年の秋以降から1598(慶長3)年までのどこかとされ、諸説あり明確になっていません。
しかも、なぜ出奔したのか、その理由もはっきりしていないのです。

出奔で失った家臣団

多くの場合、出奔に際しては家族や家臣は連れて行くなりするのですが、伊達成実は身一つで出て行ってしまいます。
そのため、伊達政宗に任されていた居城・角田城は接収されるのですが、これに家臣たちが抵抗してしまいました。
この接収は、伊達政宗の家臣の一人が急襲したものともされ、その際に伊達成実の家臣たち30人余りが命を落とし、残りの家臣団も解散することになりました。

この接収時に、妻子が亡くなったとされる事もありますが、すでに伊達成実の正室は亡くなっていますし、他に妻子がいたという記録も残っていません。
無残さなどを強調するための創作の逸話なのかもしれません。

帰参するまでの行動は不明

出奔して数年後の1600(慶長5)年、徳川家康による上杉討伐、そこから派生した関ヶ原の戦いに際して、上杉家から5万石で家臣になるよう勧誘を受けますが、それを断っています。
そしてその後、「伊達の双璧」を共になした片倉小十郎などの説得により伊達家に帰参、直後に伊達政宗が上杉軍を攻めた「白石城攻め」に参加したとされます。

関ヶ原の戦い後は、仙台藩南部にある亘理城を任されるようになります。
伊達政宗はこの当時、徳川家を仮想敵にしていたともされることから、最前線となりえる亘理城にもっとも武勇面で信頼していた伊達成実に任せたとも考えられています。
ちなみにこの亘理城、江戸時代の一国一城制により城ではないという建前を用意するため「亘理要害」と呼ばれるようになります。

伊達政宗のもとに戻ってからは、武勇だけでなく外交や所領開発、農政でも積極的に参加しています。
後年は、伊達政宗の九男を養子として迎え、家督を譲った1646(正保3年)年に79歳で亡くなりました。

伊達成実に関する豆知識

 

ここからは、伊達成実についていくつか豆知識をご紹介します。

伊達家のナンバー2

「伊達の双璧」といわれた伊達成実と片倉小十郎は共にナンバー1ではありません。
伊達家は親族である「一門」を一番上の家臣としていたので、片倉家はもっとも有名な家臣であり一番古い家臣の一人ですが、ナンバー1になることはまずありません。
そして伊達成実は、亘理城を任された際、「亘理伊達家」を興し、その初代となりました。
この亘理伊達家は一門第二席なので、こちらもナンバー1ではありません。

一門首席つまりナンバー1の家は、「陸奥石川氏」といいます。
平安時代に起きた「前九年の役」に参加した「源有光」という人物を祖とする家で、伊達家より古い家となっています。
この陸奥石川氏が伊達家に降伏したのですが、もともと伊達家と対等な大名であること、東北きっての名家のひとつという事で一門首席となりました。

兜の前立が個性的

伊達成実は兜の飾り、つまり前立てにムカデもしくはケムシを施していました。
これは、ムカデやケムシが前にしか進めないことから、決して自分は後退しないという意思のあらわれだったのだとか。

上杉家の当主になっているはずの人物だった

関ヶ原の戦いに際して上杉家から家臣になる打診を受けた伊達成実は、「本来は家臣筋のはずの人間に仕えるわけがない!」と言って断ったともされます。
実は伊達成実の父親・伊達実元は越後上杉氏当主の養子となる予定でした。
しかし、当時の伊達家当主「伊達稙宗」と、実元の養子入りを拒否した嫡男「伊達晴宗」の間で起きた父子の争い「天文の乱(てんぶんのらん)」により養子入りの話は流れてしまいました。
もし、天文の乱がおきていなければ、伊達成実は上杉家当主になっていたのかもしれないのです。

まとめ

伊達成実は、主君「伊達政宗」の大叔父の息子であり、1歳年下という親族です。
武勇に優れ、片倉小十郎とともに「伊達の双璧」と呼ばれていましたが、ある時なぜか出奔してしまいます。

関ヶ原の戦いの時期に伊達家に戻ってくると再び重用され、伊達家一門二位というトップクラスの重臣となります。

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