見識が狭いことを「井の中の蛙大海を知らず」と表現します。
これは自分の狭い世界にとらわれ、外の広い世界を見ようとしない人に対する皮肉などとしても使用される言葉です。
これらは主にネガティブな意味合いで使用されます。
しかし、実はポジティブなニュアンスの続きもあるのです。
そこで今回は「井の中の蛙大海を知らず」について解説します。
併せて、この言葉の続きについても説明します。
目次
「井の中の蛙大海を知らず」とは
まずは「井の中の蛙大海を知らず」について見ていきましょう。
「井の中の蛙大海を知らず」の意味
「井の中の蛙大海を知らず」とは自分の狭い世界にとらわれ、広い世界を知らずにいることの例えです。
主に自分だけの狭い知識や思考にとらわれている状態を指します。
特に広い世界を知らずに得々としているような状態を表します。
「井の中の蛙大海を知らず」の用い方・例文
「井の中の蛙大海を知らず」は常識にとらわれているような人物や物事に対して使用されることが多いです。
自分の世界だけにとらわれている状態に対して「井の中の蛙大海を知らずだ」というような具合で表現します。
このように「井の中の蛙大海を知らず」は人物や物事の状態に対して使用されることわざとなっているわけです。
「井の中の蛙大海を知らず」の類義語
ここからは「井の中の蛙大海を知らず」の類義語をまとめます。
井蛙
「井蛙」は井戸の中にいる蛙のことです。
井戸の中にいる蛙は井戸の中の世界しか知りません。
外の世界を知ることも外の世界に出ることもありません。
転じて、見識が狭いことを表す言葉として広まりました。
ちなみにこれらは「井蛙」と書いて「せいあ」と読みます。
葦の髄から天井を覗く
「葦の髄から天井を覗く」は葦の茎を通して天井を見ることを言います。
主にそれら狭い視野なのに天井のすべてを見たと思い込んでしまう状態を表した表現となっています。
転じて、自分の狭い見識に基づいて勝手に判断することを指すようになったそうです。
夜郎自大
「夜郎自大」は自分の力量を知らずに威張っている者の例えです。
無知がゆえに自分の能力や実力を過大評価しているような様子を指します。
これらは古代中国の故事から来た言葉とされています。
特に古代中国の小国が無知であるがゆえ、大国に対して「我が国とどちらが大きいのか」と言ったことに基づいているそうです。
夏の虫氷を笑う
「夏の虫氷を笑う」は見聞の狭い人は広い世界を理解し得ないことの例えです。
見識の狭い人が自分の知らないことを信じようとしないことを言います。
単に常識などを知らない人への皮肉としても使用されます。
これらは無知な人を指して嘲るような意味が強いです。
「井の中の蛙大海を知らず」にはポジティブな意味合いの続きがあった!
「井の中の蛙大海を知らず」はネガティブなニュアンスの言葉です。
しかし、実はこの言葉にはポジティブな意味合いの続きがあるのだとか。
「井の中の蛙大海を知らず」に続く言葉
実は「井の中の蛙大海を知らず」には続きがあります。
その続きというのが「されど空の深さを知る」というものです。
これが続くことで、限られた世界で自分の道を突き詰めたからこそ世界の深いところまで知るに至ったという意味になります。
つまり、続きを含めると「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」と言った前向きな言葉となるのです。
「井の中の蛙大海を知らず」の由来
「井の中の蛙大海を知らず」は日本ではなく中国で生まれた言葉です。
特に中国の思想家である荘子の「秋水篇」にある一節から来たとされています。
その一節とは「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」というものです。
この言葉から「井の中の蛙大海を知らず」が生まれたとされています。
これらは小さな井戸の中にいる蛙は大きな海などの井戸の外にある世界のことを何も知らないという意味が込められています。
続きは日本で後付けされたもの?
「井の中の蛙大海を知らず」に続く「されど空の深さを知る」は日本で後付けされたと考えられます。
なぜなら、これらは荘子の「秋水篇」で見られない表現だからです。
何らかの形で日本に伝わった後、前向きな印象の言葉として付け加えられたものと考えられます。
まとめ
「井の中の蛙大海を知らず」は見識が狭いことを指した表現です。
また、無知な人などを指した表現としても使用されます。
これらは古代中国から来た言葉とされています。
しかし、実は日本に伝来してから、ある文言が付け加えられました。
その文言とは「されど空の深さを知る」というものです。
これが「井の中の蛙大海を知らず」に続くことによって、前向きな言葉となるのです。